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沖縄の海の黒と赤と青

昨年8月。石巻に行った1週間後、僕は沖縄にいた。
当時、代表をしていた学生団体の初の夏合宿が沖縄で行われることになり、前日から一人、現地入りしていたのだ。

沖縄を訪れたのはこれが初めてだった。
南国というイメージをそのままに、日差しが強かったけれど、潮風のせいか淀んだ暑さは感じなかった。

那覇空港からモノレールに乗り、旭橋駅まで向かう。予約していたカプセルホテルに荷物を預けて、バスに乗る。
那覇バスターミナルから50分ほど北へ移動する。那覇の市街地から離れるほどに、街並みが観光地から住宅地に変化していくことにどこか安心感を感じていた。

「上原」というバス停で降り、少し歩くとドラッグストアがある。大きな文字で「ふてんま店」と書かれていた。「あぁ、そうか。」そのとき初めて、ここが"普天間"という土地なのだと気がついた。

Googleマップを頼りに歩いていくと普天間飛行場の仰々しいフェンスが見え、マップの青い線はフェンスに沿ってさらに続く。それは明らかに飛行場の内部へと向かう道だった。

本当にこの道で合っているのだろうかと疑心暗鬼になりながら、その道を進むと松の木の奥に、隠れるように佇む白い建物が見えた。

佐喜眞美術館。

沖縄に来て最初に行こうと決めていた場所。

佐喜眞美術館

◇◇◇

『沖縄戦の図』という作品をご存知だろうか。
この作品は、1982年から1987年に描かれた丸木位里さん・丸木俊さん夫妻によって描かれた連作の絵画だ。
丸木夫妻は戦後、『原爆の図』『南京大虐殺の図』『アウシュビッツの図』『水俣の図』などの作品を発表しており、『沖縄戦の図』は丸木夫妻、最後の作品である。
(『沖縄戦の図』というタイトルは、連作のタイトルとしても、その中の単体の作品のタイトルとしても用いられている。)

丸木位里・俊の描いた「沖縄戦の図」は、地上戦である沖縄戦を体験した方々の証言に基づき、その人々がモデルになって描かれたものです。

丸木夫妻は、「日本人の多くは体験した「空襲」を戦争と思ってしまっている。世界で起こっている戦争は地上戦なんだ。空襲と地上戦は全く違う。日本人は戦争に対する考え方は甘い、こういう国はまた戦争をするかもしれない。」と述べていました。

「沖縄戦の図」は、地上戦を国内で唯一体験した沖縄の人々に沖縄戦のことを教えてもらいながら戦争で人間がどのように破壊されるかを描きそのことをしっかり見て、戦争をしない歴史を歩んでいってほしい、という丸木夫妻の願いが込められています。

 佐喜眞美術館 常設展「沖縄戦の図」  
https://sakima.jp/about/permanent.html

美術館では、3つの展示室にこれらの作品が順番に展示され、最後の展示室に一番の大作である『沖縄戦の図』が展示されている。美術館全体は、ガマ(自然壕)をイメージして設計されており、入り口が狭く、奥に進むほどだんだんとひらけてくる。

展示室入り口前の廊下

最初の展示室に入った瞬間から一気に緊張感が増す。
丸木夫妻の絵が時として"地獄絵図"と表現される所以を皮膚をピリピリと伝う痛みによって全身で感じる。

ゆっくりと丁寧に一つ一つの絵画を見ながら歩く。

そこには沖縄戦を生き残った人々の記憶がむき出しのままに描かれており、思わず息を呑むという表現がまさにぴったりとそこにハマった。


そして、最後の展示室に足を踏み入れたとき僕はしばらくの間、その場から動けなくなってしまった。

放心状態というのはこういうことを言うのかと今になって思う。
ただ沈黙の声に押し潰されそうになるのを必死で堪えながら、絵の正面に置いてあった椅子に腰かけるのがやっとだった。

苦しい、目を背けたい。
でも、絵はそれを決して許してはくれない。

絵の反対側には証言者の方々の写真が壁一面に貼られている。

「生と死」「苦悩と救済」「人間と戦争」

この美術館のコレクションを貫くテーマは、人間が生きるということの本質を際限なく問いかけてくる。


この絵に登場する人物の多くには瞳が描かれていない。
夫妻が沖縄の人々から証言を聞いていたとき、どの人にも記憶にぽっかりと空いた空白の場所があったそうだ。

そのことについてこのような解説があった。

戦争の強い恐怖、自己消失の脅威などの体験を「戦争トラウマ」と呼ぶが、その記憶は言葉を持たず、物語とならない「死の刻印」であるとも言われている。位里は、「目でみるものは描き残しておくより外ありません」と生存者たちの五感に焼きついた記憶の断片を見つめようと心を砕いた。しかし、沖縄戦のように死の極限まで追いつめられた人間は、恐怖や怒りや痛みを感じるだけでなく、精神を保つために感情をマヒさせていく。目の前で行われていること、自分が行っていることが現実の様に思えなかっただろう。多くの証言の中に、位里は真実をみることを回避した空白の瞳を見たのではないだろうか。

 佐喜眞美術館 常設展「沖縄戦の図」
【解説】記憶の空白

沖縄戦では、空からの空襲、地上では銃弾や砲弾が飛び交い、火炎放射器で襲われ、砲弾が無差別に撃ち込まれるさまは「鉄の暴風」とまで言われた。

南部では軍人と民間人が入れ乱れ、米軍による攻撃に加えて、日本軍にスパイ容疑をかけられ生命を落とした民間人が大勢いた。プロパガンダにより、捕虜になることすらもできず、集団自決によって多くの人が生命を落とした。前からは米軍、後ろからは日本軍に銃を突きつけられる。

それは生き地獄なんていう言葉では表現しきれない、まさに生と死が同時に存在した世界。そこに救済などなかったのかもしれない。


絵の中に瞳を持った子どもが3人描かれている。

正面を向いて、じっとこちらをみつめる三人の子どもの瞳と向き合うとき、沖縄戦を生き残った方々の眼差しが自分の背中に向けられる。

「あとは任せた。」
そう言われているような気がした。

◇◇◇

展示室を出たあとも、気持ちの整理がうまくできなかった。
何も知らなかった自分への情けなさと、これだけの苦しみを生み出す戦争がかつて日本で起こったこと、そして、世界ではまだそれが続いているということ。


外に出ると屋上へと続く階段がある。

空は半分が分厚い雲に覆われていた。

屋上には、6月23日の慰霊の日にあわせ、6段と23段の階段がある。
そして、慰霊の日の日没線は、最上段の丸い窓から太陽の光が差し込む構造になっているそうだ。

階段を上り切ると普天間飛行場と、さらにその奥にかつて米軍が押し寄せてきた海岸が見える。海は艦隊によって黒で埋め尽くされ、血によって赤く染まり、本来の透き通った青に戻るまでにはしばらくの時間を要したと言う。

水平線を眺めながら、かつてこの場所から見えたであろう景色と、その絶望を想像していた。

海はどこまでも青くて、どこまでも綺麗だった。

屋上の階段

僕は今、平和な場所に生きていると思う。
安心して眠れる家があり、贅沢はできなくても食事に困ることはなく、旅に出かけ、友達と遊んで、自分のなりたい職業に就くことができる。


"平和ボケ"という言葉がある。

今の日本は、どこまでも"死"というものが希釈され、遠いものとなり、"生きる"ということに対して無頓着になっているのではないかと思ってしまう。僕たちは息をしているから、心臓が動いているから、それだけの理由で生きているわけではないし、一人の世界で生きているわけでもない。人や自然によって生かされている。

その実感を感じられない。感じられないと、人は心を失う。
誠意を忘れ、人を攻撃する。政治に無関心になり、選挙にすら行かない。世界で起こる戦争や紛争を他人事だと思い、Jアラートが鳴ってもきっと自分のいるところは大丈夫だと楽観する。こんなことを書きながら自分もまたいろいろな場面で、平和ボケしているのだろうと考えると辟易する。

『沖縄戦の図』は、戦争とは何か、死ぬとは、生きるとはどういうことなのか、怒り、悲しみ、絶望、そして、平和について考えるということについて僕に教えてくれた。

丸木夫妻が絵を通して伝えようとしたことを僕たちはこれから必死になって考えていかなければならない。


普天間基地に食い込むようにして建っている佐喜眞美術館は『沖縄戦の図』を沖縄で展示するという夫妻の想いを実現するべく、佐喜眞館長が奔走し、1994年に完成した。

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