バイセクシャルという自分を生きる ソラくんの場合~後篇~
【前篇では、ソラくん(20代半ば、仮名)の恋愛について触れた。後篇では、取材の中で語り合ったこと、彼や私の価値観について深掘りし、『バイセクシャル』というマイノリティとして生きるということについて考えてみたい】
前篇はこちら↓↓
性の好みの分岐点
前篇で、ソラくんが男性との「性」に触れたのは偶然だったという話をした。これを「目覚め」と表現する向きもあるが、この表現は「人間はみな、異性愛を前提として生まれ落ちてくる」という前提に立脚するものだ。異性愛=社会の常識ということは、社会や文化、人々の意識に浸透している。その社会の根幹を成す日本の憲法も、それを前提に作られている。その社会は、マイノリティが生きにくいものに他ならない。だから、「目覚め」という表現は使いたくない。ここでは「出会い」ということにしよう。
ソラくんは偶然、同性愛に出会ったわけだが、同じことを経験しても、人それぞれ抱く感情はバラバラだろう。ソラくんは「受容」だったが、私は違った。私も少年時代、偶然に男性同士のポルノを目にしたことはあったが、私の感情は「拒絶」だった。いま思えば、よくここまで偏見がなくなったものである。それは、NHKで本当に多種多様な人に取材した経験が変えてくれたわけだが、その話は長くなるのでやめておく。
私は、生来好奇心がめちゃくちゃ強い。何でもやってみる、食べてみる、訊いてみる、感じてみる、行ってみる、がモットーだ。バイセクシャルの男性から口説かれたこともあったが、たまたま交際していた女性がいて、他の男(もちろん女も)と肉体関係を結ぶことを良しとしなかったため、誘いは丁重に断った。だが、もし交際相手がいないフリーであれば、「んー、1度男とセックスしてみて、自分には合わないと思えばやめればいいかな」と考えたに違いない。
とすれば、生まれ持った感性以外にも、タイミングや、周囲にLGBTQの人々がいるかなどの環境、偶然などにより、性的志向は簡単に変わり得る。私も、これを読んでいるあなたも、異性愛者(ヘテロセクシャル)ではなくなっていたかもしれないのだ。アメリカやヨーロッパの芸能界や政界には性的マイノリティであることを公表している人が数多くいる。それだけ多くの人が何らかの「出会い」を経て、ありのままの自分を受容し、生きているということだ。自らの「当たり前」や「基準」「価値観」「正義」を振りかざすことの脆さが、よくわかると思う。逆に云えば、「自分の価値観は決して普遍的ではない」と思っておけば、ずいぶんと楽に生きていける、と思うのだ。
本能
取材中、ソラくんに「子どもを持つ」という選択肢について訊いてみた。その点で、ソラくんは、男性を愛するのと女性を愛するのには少し差があると考えているという。
「男が女を愛し、子どもをつくるのは動物としての本能ですよね。でも男同士だと子どもができない、つまり本能的には意味がないことを敢えてしていることになって、だからこそ損得ではない真実の愛なんじゃないかなって思うことがある」
私はこれを聞いてはっとした。愛とはなんだ。自民党の国会議員の中には、子をなすかどうかを以て「生産性」と表現した者もいたが、家族をつくり、子を産むことが人類の運命(さだめ)であり、社会的要請なのか。動物であり、子孫を残す機構が備わっているのだから、それを使い歴史を紡ぐことこそが正義であり、やはりそれが使命なのか。それに反する生き方をする人間は排撃されても然るべきなのか。ソラくんは子が生まれることを、敢えて「見返り」と表現して、「見返りのない、男性との恋愛」を『真実の愛』と云ったのである。
私は何のためにたくさんの女性たちと共に時間を過ごしてきた?見返りを求めていたのか?いや、そんな打算的には生きてこなかった。それぞれの女たちに求めたのは、確かな安らぎと、楽しい時間と、性的な充足と、自己肯定感と、美しい横顔と、当意即妙な会話と・・・。多くを求めすぎか?笑
子をなしたのはいまのところ1人の女性とだけだが、それでは、それ以外の女たちとの時間は無駄であり、失敗であったのか?そんなことはないと思う。恋愛は、相手がだれであり、自分が何者であっても、その人の血となり肉となり、礎を形成するものだ。どんな形の交際であっても、無駄なものはない。世の中にはいろんな価値観を持っている人がいる。だからこそこの世は面白い。社会に生きていて楽しいと思える。自分の考え方も、世界も、広がっていく。
性志向を打ち明ける「カミングアウト」をめぐって
人間、ありのままで生きられるのが1番幸せだ。みんなもそう思っているはずだ。だからこそ、「アナ雪」のあの歌が多くの人の共感を呼び、大ヒットしたんだと思う。他人にどう思われるかという評判、忖度、世間体など、そういった柵(しがらみ)が人の生きる可能性を狭め、個性を殺していく。みんな、頭では個性の尊重、寛容が大事と分かっているが、でも、それは建前であり、いざ自分の家族や友達など超絶身近なところで起こってくれば話は別だ。
ソラくんは、自分の母親にしか、バイセクシャルであることをカミングアウトしていない。前篇で述べた通り、まだ保守的な考えが強い地方都市に実家があるソラくんは、父親には云えていない。何でもかんでも、素直にさらけ出すことが正解とは限らない。でも、家族にも大きな秘密を抱えたまま生き続けることは、小さな「引っかかり」「わだかまり」のようなものを抱えて生きることになる。少なからず負担になることは間違いないだろう。
自分の子がバイセクシャルだと云って同性のパートナーを連れてきた時、心に波が立たない親がいるだろうか?私がバイクシャルやゲイになったとして、親父や母親に云えるだろうか?弟たちは受け容れてくれるか?家族の仲に、何かすれ違いや綻びが生じないか。逆に、自分の息子たちが将来そうカミングアウトしてきた場合、自分は鷹揚に受け容れられるか?自信は、ない。
理解しようと努めても、社会にとっての「普通」「当たり前」とされる価値観を完全に除去して向き合うことはなかなか難しい。それほどまでに、世の中や人の潜在意識に、「当然」とされる価値観は浸透していると思う。
そう考えると、父や兄たちにはバイセクシャルであることをカミングアウトできていないソラくんの気持ちはとってもわかる。だが、それは最大限尊重されなくてはならない気持ちなのだ。
終わりに
LGBTQについて取材し、何人もそうした知人がいて、彼らの気持ちに寄り添っていきたいと考えている私でさえ、今も男性同士のポルノを見ることには抵抗がある。はっきり云う。そうさせている正体は、おそらく「性愛は男女のものであり、それ以外は自分とは異質な存在である」という、差別的意識に基づく嫌悪感だ。私は、自分の中に染みつき、容易には取り去ることのできぬ、差別意識に近いものを自覚した上で執筆にあたっている。そこに無自覚にならないことでしか、自分の中にある差別的な感情と折り合い、同居して生きていくことはできないと考えているからだ。そこに無自覚になった瞬間、おおらかな社会をつくるという私の理想は空文化するし、単なる綺麗事を述べているだけの口先だけビッグマウス野郎になり下がる。社会が、人が、異質なものを大らかに受け容れていくことが、建前でなく本音ベースでも当たり前になる未来を、これからも考えていきたい。取材の機会を与えてくれたソラくんに大きな大きな感謝を示したい。
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オフィスO'raka 代表 稲垣佑透
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