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川柳発祥の日に「川柳にまつわる地」をたどったら、変わらない人の心を発見した【4701字】
きょうは「川柳発祥の日」
「 親孝行 したい時には 親はなし 」ということわざを、聞いたことはありませんか?
「親孝行をしたいと思った頃には、すでに親はこの世にはいない。
全てが終わってから後悔しても、どうにもならない。
だからこそ、若いうちから親孝行をしておくとよい。」
という意味が含まれることがあります。
このことわざを知っていても、この元ネタが「川柳(せんりゅう)」であることは、意外と知られていないのかもしれません。
そもそも「川柳」とは?
「俳句と川柳の違いが分からない」
「サラリーマン川柳とか聞いたことある」
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勢いのあまり、川柳の足跡をたどる
私はふと、川柳にまつわる地をめぐりたくなりました。
川柳の歴史が紡いだ足跡を、感じてみたくなったのです。
こうなってしまうと、行ってみるしかありません。
勢いでこのようなことを思いついて実践したのは、世界で私くらいのものかもしれません。
川柳発祥の地 (台東区蔵前 三筋2丁目交差点)
1か所目は、「 川柳発祥の地」の碑です。
台東区蔵前の、三筋2丁目交差点の一角。
赤茶色の碑がひっそりとたたずんでいます。
![](https://assets.st-note.com/img/1661512282083-bAT58hpHZT.jpg?width=1200)
隣に寄りそう柳の木の枝が伸び、碑をなでるように枝を揺らしています。
時おり吹く風に、涼しげな音を鳴らし、不思議な空間を作り出していました。
![](https://assets.st-note.com/img/1661512342363-1UEk7l6qI8.jpg?width=1200)
![](https://assets.st-note.com/img/1661512437562-Sa6ns0rFII.jpg?width=1200)
もともとは、刻印を白く塗られていたのですが、今ではそれも取れてしまっています。
横はそこまで剥がれてはいなかったため、上側は汚れが溜まりやすいのかもしれません。
正面には、このように刻印されていました。
宝暦7年(1757)8月25日、当地
(旧浅草新堀瑞天台宗龍寶寺門前)里正
柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初
めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、
ついには文芸の名をもって呼ばれ、今日
に至る川柳隆盛の礎を開く。本年その
250年に当たって後学相諮り、一碑を
建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史
に留めんと祈念するものなり。
平成19年8月25日
川柳250年実行委員会
龍寶寺(りゅうほうじ)という場所
ここには「龍寶寺」という地名が出てきます。
この地で「川柳」という名前を名乗り、作品を発表したのが、265年前の今日だったと伝えられています。
川柳の原型となる「万句合(まんくあわせ)」は、今の川柳と違うところがありました。
お題となる固定の前句(まえく)があり、続けて「五・七・五」の付句(つけく)を募集する、という形式でした。
そこからしばらくして前句がなくなり、付句だけで自由に「五・七・五」を作るようになったのです。
川柳ゆかりの地 (台東区元浅草 菊屋橋公園)
1か所目の「発祥の地」とは別に、「ゆかりの地」もありました。
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「発祥の地」と「ゆかりの地」は、どういった違いがあるのでしょうか?
歴史の「 あや 」が産んだ「 ゆかり 」
川柳の歴史に詳しい方がおっしゃるには、歴史の「 あや 」が、ここに「 ゆかり 」を産んだとのこと。
江戸時代の資料の中には、誤りを含むものがあったそう。
その資料の中には、「柄井川柳は、この一帯を治めた」という誤った情報があったようです。
その結果、事実とは異なっているのに、川柳との「 ゆかり 」が生まれ、信じられてきたということだそう。
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この碑の建立した方は、「川柳発祥の地」と刻みたかったそうです。
ただ、当時の区の担当者とのやりとりを経て、「発祥の地ではない」として、「 ゆかりの地 」と変えて、この碑が出来上がったという経緯があったのです。
この詳細は、こちらのYouTube動画でも言及されています。
この碑の裏には、このように刻まれていました。
柳翁柄井八右衛門は一七一八年出生
当地にて名主職を継ぎ、号を川柳また
無名庵、緑亭と称す。
現在の川柳の母胎ともなる前句附の
点者として活躍、「川柳評万句合」は最
も著名で、後に文芸としての名称に川柳
の号を冠するまでに至った。
一七九○年没、茲に故人ゆかりの地に
碑を建て、その功績を永く顕彰する。
平成四年四月 台東区
やはりこの碑文にも、「 ゆかりの地 」という表現があるだけで、何の「 ゆかり 」があったのかは具体的に書かれていません。
※ 碑のとなりの案内板にも、「 この地域で活躍した 」とあるだけです。
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きっかけが誤解によるものであっても、ゆかりがあることを地域の人々が信じ、歓迎したからこそ、このに碑が建てられたのです。
それほどまでに、川柳という文芸が、幅広く受け入れられ、親しまれてきたという証といえるのではないでしょうか。
川柳の原点 誹風柳多留 発祥の地 (台東区上野 上野公園前)
3つ目の記念碑です。
ここにも、「 発祥の地 」や「 原点 」との表記がありました。
そして何といっても、この碑のインパクトはすさまじいものがありました。
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樽の上に、金ピカのアヒルが羽ばたく
この碑は、京成上野駅と上野公園の間にあります。
かなり人通りの多い通りに、ちょこんと設置されているのです。
![](https://assets.st-note.com/img/1661512831110-Zx9yETT5p4.jpg?width=1200)
上野公園に向かって歩くと、バス停の近くに金ピカのアヒルが目に入ります。
歩道の幅が広く、多くの人が行き交う中で、アヒルは今まさに飛び立とうと羽を広げているのです。
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誹風柳多留って何?
この碑の正面には、このように刻印されていました。
川柳の原点
誹風柳多留発祥の地
五條天神社宮司 始澤澄江
柳多留250年実行委員会
川柳の原点というのはまだ分かりますが、「誹風柳多留」とは一体何なのでしょう?
「誹風柳多留」は、「はいふう やなぎたる」と読むそうです。
調べてみると、「誹風(はいふう)」とは、江戸時代にほぼ毎年刊行されていた、川柳の句集の名前でした。
そして「柳多留(やなぎたる)」は、川柳を「柳樽(やなぎたる)」にたとえたことが始まりです。
「俳諧(俳句)」と川柳は、兄妹の川の流れのようにたとたのです。
また、柳樽(やなぎたる)とは、おめでたい場に用意される樽だったそう。
その樽は、「中にうまいものがある」ということから、川柳を柳樽に喩えたという説があります。
また、碑の右には、このような刻印がありました。
孝行をしたい時分に親はなし
二五○年を遡る江戸に登場、一挙に市民の心をとらえた日本独自の
短詩形「川柳)は、現在も伝統文芸として盛行を見ているが、その端緒
となった呉陵軒可有著、花屋久治郎板『誹風柳多留』は、この地を
ふるさととして不朽の名をとどめると同時に、海外にまで知られる人気
のユーモア人間詩となった。その事績を永く顕彰、
一碑を建立するものである。
後学三柳記
平成二十七年八月吉日
柳多留二五○年実行委員会
今でも「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」などで親しまれる川柳。
最近では、「コロナ川柳」なるものもあるといいます。
日々の生活の中で、時にはつらい時も苦しい時もある。
そんな時にユーモアを交えて、川柳を読むのです。
よりはっきりと意識して、現実の厳しさをひっくり返していこう、という思いも感じました。
そしてこの碑には、2つの川柳が刻まれています。
「 孝行を したい時分に 親はなし 」
![](https://assets.st-note.com/img/1661513022871-rq0ZtaaNDe.jpg?width=1200)
これが冒頭に紹介した「親孝行 したい時には 親はなし」の原型になった川柳なのです。
いわれてみれば、たしかに親と子には歳の差があります。
子が大人になった頃には、親は年老いているもの。
子が一人前になることには、親はこの世にいないかもしれない。
親と一緒に過ごすのも、また有限であることを忘れてはならない。
別れの後にいくら悔やんでも、もはや取り返しはつきません。
だからこそ、今のこのときを大切に。
繊細な心の機微に着目し、ハッとさせられる。
この五・七・五の十七文字の魔力を感じます。
「 はねのある いいわけほどは あひるとぶ 」
上野公園前の碑のモチーフが、こちらの川柳。
![](https://assets.st-note.com/img/1661513048675-K9QhUYIqX4.jpg?width=1200)
この金色のアヒルには、「飛びたいと、夢があれば、誰しも飛び立てる」という意味があるのだとか。
足元のタルは、「誹風柳多留(はいふうやなぎたる)」の名前から、「多留→たる→タル」という駄洒落。
観光客のような方も、通りすがりにこのアヒルを目にした時、このような話をしていました。
「川柳、やってみようかな」
「やってみる?」
私はまさか、通りすがりの方がこの碑に気づいたことに、驚きがありました。
たまたま目にした「川柳の碑」をきっかけに、川柳の話が生まれたのです。
実際に行動しなくても、「やってみようかな」と思うことそのものが、心のスイッチが入り、行動につながるきっかけになっていたのです。
ユーモアのあり方を、このような形でも表現されていることも、川柳の魅力のひとつですね。
五世川柳 水谷緑亭 句碑 (中央区佃 住吉神社)
今までの3つとは少し離れた地にも、川柳のおもかげが残っていました。
浅草も近い下町近くとは少し離れ、ここは築地や江戸前のエリア。
ここは、「五代川柳(ごだいせんりゅう)」ゆかりの地です。
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住吉神社と五代目の「川柳」
先ほどまでの川柳の碑は、創設者といえる初代の「柄井川柳」のものでした。
一方でこちらは、5代目の川柳である「水谷緑亭(みずたに りょくてい)」のゆかりの地です。
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5代目の川柳となる水谷緑亭は、幼少期に両親を亡くし、この地である佃(つくだ)の漁師の養子となります。
そこから仕事も勉強も熱心に取り組み、魚問屋としてこの地域の名士となります。
南町奉行所につとめる同心だった四世川柳より、「五世川柳)ごせいせんりゅう)」を受け継ぎます。
五世川柳は自由な作風を好む一方で、当時は幕府の厳しい規制がありました。
その中で、川柳の作法やテンプレを整えたのです。
文芸人としてはげみつつ、この佃(つくだ)の地を治め、町奉行所からも3度の表彰を受けたほどに、多彩な才覚を発揮したと伝わります。
神社の境内でひっそりとたたずむ「 川柳の碑 」
川柳の碑を探すのは、少しだけ手間取りました。
神社の境内に緑が生い茂り、どこに石碑があるのか分かりません。
緑のあるところを探し回っていると、ふとした茂みに気づきました。
灯籠の奥、道をかき消すほどの草木の奥に、その石碑はありました。
![](https://assets.st-note.com/img/1661513229248-7uOgnP8Tuy.jpg?width=1200)
後から気づいたのですが、石碑の近くに案内板もありました。
こちらはこちらで、草木に埋もれていたため、なかなか見つけ出すのに苦労しました。
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「 和らかで かたく持ちたし 人ごころ 」
五代川柳の句の記された碑には、このように記されていました。
やわらかで かたくもちたし ひとごころ
「人の心とはやわらかく、それでいてかたく結びつく、そうあって欲しい」
このような思いが込められていると、私は感じました。
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石碑の裏側にも、何か書かれているような様子もありました。
しかし、草木があまりに生い茂り、クモの巣も見えたので確認を断念。
またいつかアタックしたいところです。
五代川柳のエピソード
初代の「 柄井川柳 」も、「 五代川柳 」も、この記事では語りきれないほどのエピソードのある人物です。
五代川柳も、明治時代の教科書に載るほどに、波瀾万丈の人生をあゆみ、功績を残したのです。
中央区 月島・佃(つくだ)の歴史と切ってもきれない人物で、こちらのYouTube動画にも紹介されていました。
川柳は「 人の心の映し出す鏡 」
いかがでしたでしょうか?
勢いで始めてしまった、川柳にまつわる地をめぐる旅。
まさかここまで引き込まれていくとは、思ってもみませんでした。
「川柳発祥の日」である8月25日に、川柳のおもかげをたどる旅。
このような旅を私だけでなく、この記事を通してあなたに感じていただけたなら、うれしい思いです。
もっと川柳にふれてみたいと、私も関心が高まってきました。
五・七・五の十七文字で、今を生きる人の心を揺さぶる川柳。
みなさんも少し触れてみませんか?
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