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川柳発祥の日に「川柳にまつわる地」をたどったら、変わらない人の心を発見した【4701字】

きょうは「川柳発祥の日」

親孝行 したい時には 親はなし 」ということわざを、聞いたことはありませんか?

「親孝行をしたいと思った頃には、すでに親はこの世にはいない。
 全てが終わってから後悔しても、どうにもならない。
 だからこそ、若いうちから親孝行をしておくとよい。」
という意味が含まれることがあります。

このことわざを知っていても、この元ネタが「川柳(せんりゅう)」であることは、意外と知られていないのかもしれません。

そもそも「川柳」とは?

「俳句と川柳の違いが分からない」
「サラリーマン川柳とか聞いたことある」


勢いのあまり、川柳の足跡をたどる

私はふと、川柳にまつわる地をめぐりたくなりました。
川柳の歴史が紡いだ足跡を、感じてみたくなったのです。

こうなってしまうと、行ってみるしかありません。
勢いでこのようなことを思いついて実践したのは、世界で私くらいのものかもしれません。

川柳発祥の地 (台東区蔵前 三筋2丁目交差点)

1か所目は、「 川柳発祥の地」の碑です。

台東区蔵前の、三筋2丁目交差点の一角。
赤茶色の碑がひっそりとたたずんでいます。

隣に寄りそう柳の木の枝が伸び、碑をなでるように枝を揺らしています。
時おり吹く風に、涼しげな音を鳴らし、不思議な空間を作り出していました。

もともとは、刻印を白く塗られていたのですが、今ではそれも取れてしまっています。
横はそこまで剥がれてはいなかったため、上側は汚れが溜まりやすいのかもしれません。

正面には、このように刻印されていました。

宝暦7年(1757)8月25日、当地
(旧浅草新堀瑞天台宗龍寶寺門前)里正
柄井八右衛門、無名庵川柳と号し、初
めて万句合を開巻す。爾来文運旺んに、
ついには文芸の名をもって呼ばれ、今日
に至る川柳隆盛の礎を開く。本年その
250年に当たって後学相諮り、一碑を
建てて開祖の遺業を顕彰し、永く歴史
に留めんと祈念するものなり。

平成19年8月25日
川柳250年実行委員会

龍寶寺(りゅうほうじ)という場所

ここには「龍寶寺」という地名が出てきます。
この地で「川柳」という名前を名乗り、作品を発表したのが、265年前の今日だったと伝えられています。

川柳の原型となる「万句合(まんくあわせ)」は、今の川柳と違うところがありました。
お題となる固定の前句(まえく)があり、続けて「五・七・五」の付句(つけく)を募集する、という形式でした。

そこからしばらくして前句がなくなり、付句だけで自由に「五・七・五」を作るようになったのです。

川柳ゆかりの地 (台東区元浅草 菊屋橋公園)

1か所目の「発祥の地」とは別に、「ゆかりの地」もありました。

「発祥の地」と「ゆかりの地」は、どういった違いがあるのでしょうか?

歴史の「 あや 」が産んだ「 ゆかり 」

川柳の歴史に詳しい方がおっしゃるには、歴史の「 あや 」が、ここに「 ゆかり 」を産んだとのこと。

江戸時代の資料の中には、誤りを含むものがあったそう。
その資料の中には、「柄井川柳は、この一帯を治めた」という誤った情報があったようです。
その結果、事実とは異なっているのに、川柳との「 ゆかり 」が生まれ、信じられてきたということだそう。

この碑の建立した方は、「川柳発祥の地」と刻みたかったそうです。
ただ、当時の区の担当者とのやりとりを経て、「発祥の地ではない」として、「 ゆかりの地 」と変えて、この碑が出来上がったという経緯があったのです。

この詳細は、こちらのYouTube動画でも言及されています。

この碑の裏には、このように刻まれていました。

柳翁柄井八右衛門は一七一八年出生
当地にて名主職を継ぎ、号を川柳また
無名庵、緑亭と称す。
現在の川柳の母胎ともなる前句附の
点者として活躍、「川柳評万句合」は最
も著名で、後に文芸としての名称に川柳
の号を冠するまでに至った。
一七九○年没、茲に故人ゆかりの地に
碑を建て、その功績を永く顕彰する。

平成四年四月 台東区

やはりこの碑文にも、「 ゆかりの地 」という表現があるだけで、何の「 ゆかり 」があったのかは具体的に書かれていません。
※ 碑のとなりの案内板にも、「 この地域で活躍した 」とあるだけです。

きっかけが誤解によるものであっても、ゆかりがあることを地域の人々が信じ、歓迎したからこそ、このに碑が建てられたのです。

それほどまでに、川柳という文芸が、幅広く受け入れられ、親しまれてきたという証といえるのではないでしょうか。

川柳の原点 誹風柳多留 発祥の地 (台東区上野 上野公園前)

3つ目の記念碑です。
ここにも、「 発祥の地 」や「 原点 」との表記がありました。

そして何といっても、この碑のインパクトはすさまじいものがありました。

樽の上に、金ピカのアヒルが羽ばたく

この碑は、京成上野駅と上野公園の間にあります。
かなり人通りの多い通りに、ちょこんと設置されているのです。

上野公園に向かって歩くと、バス停の近くに金ピカのアヒルが目に入ります。
歩道の幅が広く、多くの人が行き交う中で、アヒルは今まさに飛び立とうと羽を広げているのです。

誹風柳多留って何?

この碑の正面には、このように刻印されていました。

川柳の原点
誹風柳多留発祥の地
五條天神社宮司 始澤澄江
柳多留250年実行委員会

川柳の原点というのはまだ分かりますが、「誹風柳多留」とは一体何なのでしょう?

「誹風柳多留」は、「はいふう やなぎたる」と読むそうです。
調べてみると、「誹風(はいふう)」とは、江戸時代にほぼ毎年刊行されていた、川柳の句集の名前でした。

そして「柳多留(やなぎたる)」は、川柳を「柳樽(やなぎたる)」にたとえたことが始まりです。
「俳諧(俳句)」と川柳は、兄妹の川の流れのようにたとたのです。

また、柳樽(やなぎたる)とは、おめでたい場に用意される樽だったそう。
その樽は、「中にうまいものがある」ということから、川柳を柳樽に喩えたという説があります。

また、碑の右には、このような刻印がありました。

孝行をしたい時分に親はなし
二五○年を遡る江戸に登場、一挙に市民の心をとらえた日本独自の
短詩形「川柳)は、現在も伝統文芸として盛行を見ているが、その端緒
となった呉陵軒可有著、花屋久治郎板『誹風柳多留』は、この地を
ふるさととして不朽の名をとどめると同時に、海外にまで知られる人気
のユーモア人間詩となった。その事績を永く顕彰、
一碑を建立するものである。

後学三柳記
平成二十七年八月吉日
柳多留二五○年実行委員会

今でも「サラリーマン川柳」や「シルバー川柳」などで親しまれる川柳。
最近では、「コロナ川柳」なるものもあるといいます。

日々の生活の中で、時にはつらい時も苦しい時もある。
そんな時にユーモアを交えて、川柳を読むのです。

よりはっきりと意識して、現実の厳しさをひっくり返していこう、という思いも感じました。

そしてこの碑には、2つの川柳が刻まれています。

「 孝行を したい時分に 親はなし 」

これが冒頭に紹介した「親孝行 したい時には 親はなし」の原型になった川柳なのです。

いわれてみれば、たしかに親と子には歳の差があります。
子が大人になった頃には、親は年老いているもの。
子が一人前になることには、親はこの世にいないかもしれない。

親と一緒に過ごすのも、また有限であることを忘れてはならない。
別れの後にいくら悔やんでも、もはや取り返しはつきません。
だからこそ、今のこのときを大切に。

繊細な心の機微に着目し、ハッとさせられる。
この五・七・五の十七文字の魔力を感じます。

「 はねのある いいわけほどは あひるとぶ 」

上野公園前の碑のモチーフが、こちらの川柳。

この金色のアヒルには、「飛びたいと、夢があれば、誰しも飛び立てる」という意味があるのだとか。

足元のタルは、「誹風柳多留(はいふうやなぎたる)」の名前から、「多留→たる→タル」という駄洒落。

観光客のような方も、通りすがりにこのアヒルを目にした時、このような話をしていました。
「川柳、やってみようかな」
「やってみる?」

私はまさか、通りすがりの方がこの碑に気づいたことに、驚きがありました。

たまたま目にした「川柳の碑」をきっかけに、川柳の話が生まれたのです。
実際に行動しなくても、「やってみようかな」と思うことそのものが、心のスイッチが入り、行動につながるきっかけになっていたのです。

ユーモアのあり方を、このような形でも表現されていることも、川柳の魅力のひとつですね。

五世川柳 水谷緑亭 句碑 (中央区佃 住吉神社)

今までの3つとは少し離れた地にも、川柳のおもかげが残っていました。

浅草も近い下町近くとは少し離れ、ここは築地や江戸前のエリア。

ここは、「五代川柳(ごだいせんりゅう)」ゆかりの地です。

住吉神社と五代目の「川柳」

先ほどまでの川柳の碑は、創設者といえる初代の「柄井川柳」のものでした。

一方でこちらは、5代目の川柳である「水谷緑亭(みずたに りょくてい)」のゆかりの地です。

5代目の川柳となる水谷緑亭は、幼少期に両親を亡くし、この地である佃(つくだ)の漁師の養子となります。
そこから仕事も勉強も熱心に取り組み、魚問屋としてこの地域の名士となります。

南町奉行所につとめる同心だった四世川柳より、「五世川柳)ごせいせんりゅう)」を受け継ぎます。
五世川柳は自由な作風を好む一方で、当時は幕府の厳しい規制がありました。
その中で、川柳の作法やテンプレを整えたのです。

文芸人としてはげみつつ、この佃(つくだ)の地を治め、町奉行所からも3度の表彰を受けたほどに、多彩な才覚を発揮したと伝わります。

神社の境内でひっそりとたたずむ「 川柳の碑 」

川柳の碑を探すのは、少しだけ手間取りました。
神社の境内に緑が生い茂り、どこに石碑があるのか分かりません。

緑のあるところを探し回っていると、ふとした茂みに気づきました。
灯籠の奥、道をかき消すほどの草木の奥に、その石碑はありました。

後から気づいたのですが、石碑の近くに案内板もありました。
こちらはこちらで、草木に埋もれていたため、なかなか見つけ出すのに苦労しました。

「 和らかで かたく持ちたし 人ごころ 」

五代川柳の句の記された碑には、このように記されていました。

やわらかで かたくもちたし ひとごころ

「人の心とはやわらかく、それでいてかたく結びつく、そうあって欲しい」
このような思いが込められていると、私は感じました。

石碑の裏側にも、何か書かれているような様子もありました。
しかし、草木があまりに生い茂り、クモの巣も見えたので確認を断念。
またいつかアタックしたいところです。

五代川柳のエピソード

初代の「 柄井川柳 」も、「 五代川柳 」も、この記事では語りきれないほどのエピソードのある人物です。

五代川柳も、明治時代の教科書に載るほどに、波瀾万丈の人生をあゆみ、功績を残したのです。
中央区 月島・佃(つくだ)の歴史と切ってもきれない人物で、こちらのYouTube動画にも紹介されていました。

川柳は「 人の心の映し出す鏡 」

いかがでしたでしょうか?

勢いで始めてしまった、川柳にまつわる地をめぐる旅。
まさかここまで引き込まれていくとは、思ってもみませんでした。

「川柳発祥の日」である8月25日に、川柳のおもかげをたどる旅。
このような旅を私だけでなく、この記事を通してあなたに感じていただけたなら、うれしい思いです。

もっと川柳にふれてみたいと、私も関心が高まってきました。
五・七・五の十七文字で、今を生きる人の心を揺さぶる川柳。

みなさんも少し触れてみませんか?

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