星との対話・星を聴くこと

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形式論理的なる思考というものは、ものとものとを分けて、それらを厳格に、分離するところから、それらを並べ立てたりとする、そうした「ロゴス」的なる働きとは、異なる仕方での、象徴と象徴との、結び合いや、イメージとイメージとの新たな結合関係からの、なんらかの新たなものの浮上する、そうした関係の総体をもってまなざす、まなざされる、という、そうした思考の〈形態〉というものが、あるものだ。

タロット占い師として、活動をはじめた頃にはよく自覚はされていなかったものの、そうした象徴関係の読み解きを進めるなかで、「占い」と「文学」との密接に結びつく関係を、体験として、知るようにもなっていったと思う。

他者からの、語り出されてくる情報を脳裏に浮遊させながら、けっしてその言語化されたものだけを掴んでなにかを描き出すのではなく、そこに描かれてはいない、言外の意味なるもの、その、〈意味以前〉のものをも〈聴く〉ようにとすることだけが、新たな視界を、開いてくる。

対話をすることもまた、あるものだけども、なにを聴くべきか、は、わたしの判断ではなく〈場〉が決めるものだから、わたしはなにを聴こうかと、あまり意識で考えるものではなく、その場所を共有し、相手との関係の只中にある、居ることを、ていねいに、静かに行うと、場が溶解し、わたしもまた溶け出して、自由に漂う〈聴く意識〉となり浮遊する。

フロイト、中井久夫さんが、「自由に漂う注意」とは、こういうものかと思う、という、そうした臨床の場における、自他の溶解体験、その場そのものが、語り出す、語り始める、そうしたことのはの端っこのほうを、ちょい、とつまみだしたりする、そうした〈症候を聴く〉あるいは〈観る/看る〉という作法があり、わたしは、それをどこでどのように、身につけてきたのかはわからないのだが、気がついたらそうしていたみたいで、〈聴く〉ことはおそらくはそうした、〈他者を聴く〉ことともつながっていて、わたしは、モモを、思い出される。

モモは、聴くのが、上手だ。わたしは、そう、思う。彼女のように、聴けたら、と思う。あるいはもう、できているのかも、しれない。星が、きこえてくるから、それは、きかれる。


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