雨は私を止めない。
最寄駅に到着した時にちょうど、乗りたい電車が発車した。次の電車までは10分。時間に余裕のない朝においては途方もなく長い時間だ。
東京駅に着いたのは新幹線が発車する15分前。新幹線の改札まで少し距離はあるものの、全く余裕のない時間というわけではない。私はすっかり安心していた。
三連休初日の朝だからか、新幹線の改札の周りは、当日に切符を買おうとしていると思われる人々でごった返していた。指定席はもう満席だろうから、自由席切符を買おうとしているのだろうか。
それが切符を買おうとしている人々でないのに気付いたのは、改札ほど近くまで着いてのことだった。それらの人々は、改札に向かって列をなしていたのだ。
新幹線の改札を通過するための大行列なんて、今まで目にしたことはなかった。とりあえず引き返して列の最後尾に並び、粛々とそれが前に進むのに従った。列は思いの外早く進んでくれたが、ホームのキオスクでお茶と肉巻き寿司を買って電車に乗り込むとすぐに発車を知らせるアナウンスが車内に流れた。
2人席の窓側に座った。隣は黒いメイド風の服を着た若い女の子だった。テーブルの上にこれまた黒いベレー帽をおいて、スマートフォンでドラマらしきものを観ていた。
名古屋までは1時間40分かかり、10時過ぎに到着予定だった。私は1時間半後にアラームが鳴るようにセットして目を瞑った。
どうやら夢も見なかったようだ。
目が覚めた時、車内には“非常な雰囲気”が流れていた。寝ぼけたまま耳をすませると、少しだけ張り詰めた声で、
「東海道新幹線は大雨の影響で現在運転を見合わせています。そのためこの電車は、豊橋駅でしばらく停車いたします。扉は開けないので車内でそのままお待ちください。運転再開の目処が立ちましたらまたご連絡いたします」
と繰り返していた。
名古屋ラシックで開催中の「サロンドパルファン2024」の店頭接客のために名古屋に向かっていた。開店時間は11時。もし名古屋駅に10時45分ごろ到着すればギリギリ間に合うだろうと思い、私は時計に目をやった。
9時45分。大雨で止まった電車がどれくらいの時間で再出発できるのかについては全く見当がつかなかった。とりあえずセットしていたアラームを解除して、私はもう一度目を瞑ることにした。
次に目が覚めたのは10時半だった。相変わらず電車は同じところで停車しているようだった。もうこれで私の遅刻はほぼ確定した。それにしてもよく寝た。おかげでなんだかスッキリした。焦ったところで電車が動くわけではないので、とりあえず「サロンドパルファン」の担当者に電話で遅刻する旨連絡を入れ（その時点では新幹線の運転見合わせは周知のことだったようだ）、再出発までのんびり過ごすことにした。
Instagramのストーリーズに
「大雨の影響で新幹線が立ち往生。
豊橋駅でかれこれ1時間止まってます...」
と投稿。すると何名かの友人からDMが送られてきた。彼ら彼女らとダラダラとチャットをしながら、なんだかこんなふうに何もしないで過ごすのがとても久しぶりであるように感じていた。本も読まなかった。
もちろん、そんなに日々スケジュールに追われて過ごしているわけではない。ただ、常にやることを抱えている今日この頃において、新幹線の運転見合わせという“大義名分”によって、「何もしない」ということが客観的に“肯定”されたように思われたのだ。
それは電波の届かない飛行機の中に幾分似ている。「電波が届かないから仕事ができない」というのは必ずしも適切な言い訳ではないかもしれないが、少なくとも誰からも連絡をもらうことはないという点においては仕事をする“義務”から解放されたような気分になる。
隣の女の子は終始動画を観続けていた。彼女の中では目的地に何時に到着しようとも、そのスマートフォンの中とメイド服に現実があるのかもしれない。
結局1時間半ほ電車は止まっていたようだ。運転を再開したのが11時10分過ぎ、名古屋駅に到着したのが11時半過ぎ。タクシーに乗り込み、ラシックへと向かった。
タクシーの車内の中で私は、あの1時間半を懐かしく思い出していた。会場で待っている社員さんやお客さんには申し訳ないが、あのままもっと新幹線が止まってくれていてもよかった。私が手にした“大義名分”は新幹線の運転再開とともに蜃気楼のように消え、新幹線の車窓からの次々と流れてくる景色のようにあれこれの“義務”が私のところへと舞い戻ってきた。
きっと疲れているのだ。私はずっと走り続けている新幹線のようだ。そろそろどこかで立ち止まらなければならない。ただ残念ながら、雨は私を止めない。私を止めるのは、私だけなのだ。
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