多様性のない世界へ向かう

最近、生意気にも就活生のESを添削することがある。
そこにはこんな言葉が書いてあることが多い。

「多様性を受け入れ〜」「多様性を認め〜」

これらは留学先でのエピソードや、チームで何かを成し遂げたエピソードの先に、締めの言葉としてしばしば登場する。時代はよりグローバルに、よりチームの力を重視するようになっているようだ。

就活をしていれば英語が話せるか聞かれ、リーダーシップについて聞かれ、チームとは何かを聞かれる。

世界に対してオープンでいることも、チームで何かを成し遂げることも、多様性を受け入れることが必須なんだと思う。非常に尊く、今の社会には欠かせない力のようだ。

だから「多様性」という言葉がエントリーシートのうえに氾濫する。

なんだか、僕は違和感を感じる。

まず、「多様性」とはなんだろう?人とは違うということ?

だが、考えてほしい。
人は必ず人とは違う。

もし、同じ細胞を持つクローンであっても、オリジナルか?クローンか?でその人の生き方は変わる。クローン同士であっても生まれた順番で変わる。時代の目によっても変わる。環境によって同じ細胞を持った人間でも全く違う人生を生きるだろう。

ましてや僕らは遺伝子も違えば、環境も違う。
大きな目で見れば日本に住んでいるが、細かく見れば違う。
東京と埼玉は違う。大宮と越谷も違う。他にもいろんなことが違う。
すると僕らは自然に、当り前に全く違う人間になっていく。
一卵性の双子だって全く別の人間だ。

人はもとより多様性を持っている。

多様性を持つことは当たり前なのだ。
わざわざ言葉にすることじゃないような気がしてならない。

しかし、世の就活生は、多様性を受け入れることをアピールポイントと考えている。なんだかおかしい。これはおかしいんじゃないか?

多様性を受け入れるということは凄いことのようだ。
すると、多様性という言葉はそれ自体が、「受け入れられない」という前提で成り立っているように思えてくる。だからこそ、多様性を受け入れられることは強みであり、長所なのだ。

しかし、多様性は誰もが持っている。
誰もが自分の人生を生きている。自分を生きているのだ。

「多様性」という言葉はこの当り前を顕在化させる。
人間に「単一性」が存在することは絶対にありえない。
しかし、「多様性」という言葉、つまり概念は生まれてしまったのだ。

「多様性」という言葉が存在することによって、それを受け入れるのか?受け入れられないのか?という問いが生まれてしまったのだ。多様性というものは必ず存在するにも関わらず…

これから世界よりオープンになり、多くの人と多くの場面で接するようになるのだろう。そんな中で「多様性を受け入れる」というのは大前提も大前提であり、言葉にするのも恥ずかしいことだと思う。

人は受け入れ、人に受け入れられ生きていく。
それは他人の人生でなく、唯一自分だけの人生を。
自分に対して重い責任を持って、生きていくのだと思う。

すると、村人であり、島国に住む日本人に「多様性」という言葉(概念)が産まれたのは案外最近なんじゃないかと思う。きっとこうゆう概念は大陸で続く他の国よりもまだまだ未熟なんだと思う。

多様性という言葉はそれを「受け入れるため」に産まれたのだ。

新しい言葉が産まれ、人はその言葉を意識するようになった。
今現在、多様性という言葉は"受け入れられるため"に必死だ。
エントリーシートがそれを教えてくれた。

『多様性のない世界』と題名をつけた。

これは誤解を産み、ヘイトを産み、キャッチーで読んでもらいやすいと思ってつけた題名だ。意図した通り、ここまで読んで頂けた。この題名は言葉足らずだ。僕が目指すのは、、、

『多様性という"言葉"のない世界』である。

100年後、多様性という言葉を聞いて、子供達が先祖の視野の狭さに思わず笑ってしまうような世界にしたい。全員が自分の、自分だけの人生に責任を持って生きる。多様性なんてわざわざ意識せず、自分を生きる。そして人は当り前に助け合っていく。そんな世界にしたい。

言葉は目的を、持って産まれ、目的を果たしたら消えていく。
それでいいんじゃないかと思う。

「多様性」という言葉はその役割をはやく終えなくてはならない。