遊びと学びを切り離してはいけない

学童だからこそできる学びがあると思い、学童を立ち上げます。

具体的には、
1.好きなことを見つけ、とことん探究する
2.どんどん外に出向き交流し、リアルを知る
3.生活のなかで自然と身につける社会性

の3つです。


保育園や幼稚園などの幼児教育では、「遊ぶ」ことをカリキュラムの中心においている施設が数多く存在します。ほとんどがそうなのかもしれません。自分が好きなもの・ことで「遊ぶ」活動を通して、その遊びの中から人間関係の築き方や成功の喜び、失敗への対処の仕方、身体的な発育、道徳観などなど…たくさんのことを学ぶのです。

しかし、小学校に入学した途端、遊びと学びが完全に切り離されてしまいます。遊ぶのは授業と授業の合間の休み時間。授業時間中は、しっかり席に座り、先生の話を静かに聴き、鉛筆を動かさなければならない。「小1プロブレム」(小学1年生が学校生活に適応できずに起こす問題行動)はまさにこうした幼児教育と学校教育のギャップから生じています。

School(学校)の語源はSkhole(スコレー:ギリシャ語で余暇の意)です。もっと学校は肩の力を抜いて、子ども達が伸び伸びと自由に時間を使い、好きなことを見つけることができるような、そんな場所でなければならないはずです。子ども達の遊びをいかに学びに変換することができるかが、教員に求められるスキルなのです。

現在の学校教育が、子どもの学びたいという意欲を希薄化させ、子どもは勉強は教わるもの、勉強はつまらない、と決めつけてしまっているように感じます。


とはいえ、現代の学校が「遊びと学びを融合させた教育」を実現するのが容易でないことは、現場にいた私はよく理解しているつもりです。

一人で30人以上の生徒を一斉にみて、教科書の範囲を網羅しなければならない。テストを行い、評価をつけなければならない。現在の学校教育の仕組みの中で先述した学校を築くのは簡単ではありません。(できないとは言えません。軽井沢風越学園など創作や遊び、探究をカリキュラムの中心においた革新的な学校が日本においても誕生しています。)


先日、近所の公園で娘2人を連れて散歩していました。広い広場があり、家族連れや友人同士など、複数のグループが少し距離をとってボール遊びなどを楽しんでいました。訪れた時はとっても平和で居心地の良い雰囲気だったのですが、途中から現れた中学生の2人組が、雰囲気を一変させました。

彼らはサッカーをしていたのですが、1人はスマホを手に持っており、そこから大音量の音楽を流しているのです。
(…ツッパルコトガオトコノ♪…タッタヒトツノクンショウ♪…)

・・・周りにいる大人たちは迷惑そうに顔をしかめましたが、彼らはお構いなし。ノリノリでサッカーボールを蹴って、しばらくすると去っていきました。中学校のステッカーがバッチリ貼ってある自転車に乗って。

その時私は思いました。
「もしかしたら、週明け、彼の中学校に苦情の電話が入るかもしれないな。」

長めの余談を挟みましたが、学校に求められる役割は年々広がっているように思います。ただでさえ多忙な教職員は、生徒が休日に地域で起こす問題行動にも対処しなければならなくなっています。私は、ある飲食店のオーナーから、生徒の店内でのマナーの悪さ(もちろん休日のこと)を指摘され、こっぴどく叱られたことがあります。

ひと昔前なら、その場で大人が彼らに一喝。これで終わりのはずです。それで怒りが収まらなければ、親を呼んで叱る。親が謝罪し、最後に親が子を叱る。一連の流れに学校は登場しません。


回りくどくなりましたが、「遊びと学びを融合させた教育」を学校で実践する難しさは痛いほどよくわかります。

ならば、方法は2つです。学校を変えるか、学校以外でそれをやるか。

私は、学校以外に子どもの教育と真剣に向き合った場所がもっとあって良いと考えました。

核家族化や地域コミュニティの希薄化で、子どもを見守り育むような大人が、親と先生しかいない。ならば、新たな空間をつくって、そこがハブとなって地域との繋がりを増やしていけたら、多くの大人が地域の子ども達の成長を見守り手助けできる。子ども達は、地域の人たちと交流することで、社会のリアルに触れながら学ぶことができる。そんな仕組みができるのではないかと考えました。

学童は「生活の場」であることが基本です。学習指導要領は存在しません。

より自由に、より主体的に、子ども達が「遊びながら学んでいく」ことができる最適な空間だと考えました。


少しずつですが、着実に形にしていきたいと思います。

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