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群像と風刺と人間模様、ヴァロットンがモノクロームで描いたもの

師走の慌ただしさに記憶が押し流されてしまいそうなこのごろ、そんな記憶に引っかかりを見つけてはフックに吊りさげて見えるようにしておきたい。フックがあちらこちらに垂れさがるのは干しっぱなしの洗濯物みたいであまり美しくはないのだけど、洗濯物に生活感があらわれるのと同じように知識と経験と思考の断片が浮かびあがるような気がして、空想のフックを並べている。

そんな空想のフックにさがった記憶の断片は、まさに芋づる式にさまざまな過去の記憶を引きずり出してくれる。

先々週バーニー・フュークスの光あふれる絵画を記憶のフックに吊りさげたら、その向こうにモノクロームのフックをぶらさげていたのを思い出した。

それは1ヶ月ほど前に観た展覧会。会場は東京丸の内の三菱一号館美術館。タイトルは「ヴァロットン 黒と白」。19世紀末のフランスで活躍したフェリックス・ヴァロットンの木版画を中心にした展覧会だ。

先日のバーニー・フュークスと色の有無のちがいはあれど、明暗を描いているのは変わらない。フュークスは逆光を多用して光を描いていたのに対し、ヴァロットンはマットな黒で影を描いた。

どちらも雑誌やポスターなどの商業印刷を発表媒体にしていた。フュークスは米国人として米国のスポーツを中心に描き、いっぽうヴァロットンは異邦人としてパリの現実を冷ややかに捉えた。現実の捉え方はさまざま。まったく異なるアプローチの絵画をつづけて観ると、あとからそれぞれの鋭さにあらためて気づかされる。

今回のnoteは先月観たヴァロットン展と、そこから芋づる式にひっぱり出されてきた過去の記憶について。

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木版画は浮世絵のような多色刷りにしないかぎり、版木の彫った部分と残した部分の二色にしかならない。色数には限界があっても表現力は無限。白黒だからこそ表現できるものだってある。

ヴァロットンが得意としたのは人物の造形と動きの一瞬を捉えた描写、そして群衆。白黒二値の画面で構成する必然性からか、研ぎ澄まされた画面構成のセンスがうかがわれる。画面構成のセンスはデザインセンスと言い換えてもよさそうだ。

木版画の版木は決まった枚数を刷ったあとは破棄されることになっている。作品の希少性を確保するため。その証拠として、破棄された版木の断片を使って刷られたものがある。そんな断片の組み合わせであっても、黒と白がバランスよく配置され、それぞれのカットが意味深なストーリーをほのめかしているように見えてくる。この感性は21世紀の現代にも通用する。

図録より。『アンティミテ』の版木破棄証明のための刷り。

そしてその人物・群衆の描写には、常に冷静で批判的な視点が見え隠れする。展覧会の解説でも繰り返し触れられていたことだけれど、それは異邦人ならではの客観的な視点であり、風刺精神だった。

版画集『息づく街パリ』の口絵。ジンコグラフという亜鉛版の作品。作品の一部が赤い壁面に大きくあしらわれている。

この展覧会では、ところどころ展示作品の一部をモチーフにした壁面デザインやアニメーションの投影がされていて楽しかった。ほぼ全体が版画で統一されていたからこその空間演出。会場全体がヴァロットンのデザインセンスと呼応しているようで、その世界観に浸りながら展示作品を鑑賞できた。

ヴァロットンはスイス、ローザンヌの敬虔なプロテスタントの家庭で育ったという。そんな彼にとって猥雑で活気あふれるパリの街はそうとうインパクトのある題材だったにちがいない。パリで活動していたもののパリっ子にはなりきれず、所属していたナビ派では「外国人のナビ(nabis étranger)」と呼ばれていた。常にアウトサイダーだった。

図録より。ヴァロットンの知名度をあげることになった書籍『群衆—パリの野次馬たち、街路の生理学』の挿絵の数々。

アウトサイダーの視点で描かれたパリの雑踏、生き生きとした人びとの様子。ヴァロットンの時代から半世紀ほど前のパリを舞台にした映画「天井桟敷の人々」(1945年公開、マルセル・カルネ監督)を思い出す。

天井桟敷の人々

わたしはこの映画が大好きで、DVDをケニアまで持って行ってナイロビ駐在中に何度も何度も鑑賞していたぐらいだ。ヴァロットンが生きたのはこの映画の設定から半世紀後。それでもヴァロットンの描いたパリの雑踏には「天井桟敷の人々」の犯罪大通りを彷彿させる活気と雰囲気がひきつがれているようだ。そしてこの映画の視点もどこか客観的で、共通点を感じる。

なお下のリンクは2年前に公開された4K修復版の公式サイト。

パリの人々と社会に対するヴァロットンの視点は風刺の度合いを増してゆく。それには出版の自由に関する法律がおおきかったようだ。友人に無政府主義者アナーキストのシャルル・モランがいたというから、その影響もあったことだろう。

展示室の壁面にあしらわれていた《街頭デモ》

写真OKの展示室の壁面にあしらわれていたのは1893年の《街頭デモ》という作品。このころのパリでは暴動や学生デモが発生して社会不安が増していたという。

この作品はタイトルを街頭デモとしながらも、デモそのものではなく逃げ惑う群衆を描いている。デモを取り締まる警察権力の脅威と市民の不安を描くこの鋭さ。この視点はジャーナリズムだ。

アンリ・カルティエ=ブレッソン

ヴァロットンの時代から、こんどはさらに半世紀ほど後に話を移す。

次にわたしの連想ゲームにあらわれたのはフランスの写真家アンリ・カルティエ=ブレッソン。決定的瞬間を意外性ある構図で捉えたカルティエ=ブレッソンの写真。そこにも鋭いジャーナリズムの視点が内包されていた。

ヴァロットンの版画とカルティエ=ブレッソンの写真もまた、いろいろと共通している。

たとえば劇場の前と内部。手すり越しに思い思いになにかを眺めている人びと。

『À Propos de Paris』(Cartier-Bresson著、2007年Bulfinch刊)より

ヴァロットンも同じような群衆を描いている。こちらは愛国的な歌を聞く人びとだけど、その思いはさまざまなことがわかる。

図録より、《祖国を讃える歌》

路上で棺を担ぐ人びと。カルティエ=ブレッソンの写真では軽そうに一人で担いでいるので棺のなかは空の状態か。

『À Propos de Paris』(Cartier-Bresson著、2007年Bulfinch刊)より

ヴァロットンが描いたのは重そうな棺。カルティエ=ブレッソンの写真の棺にあった取手が複数人で運ぶときに使われるものだというのがよくわかる。「死」もヴァロットンがよく描いたモチーフだった。

図録より《埋葬虫(シデムシ)》と《難局》。それにしたって、この埋葬虫(シデムシ)というタイトルのブラックユーモアっぷり!

手塚治虫

埋葬虫シデムシ》なんてタイトルの作品を紹介したからというわけではないのだけど、ヴァロットンの版画からわたしがほかに連想したのは手塚治虫の初期作品だった。初期の手塚マンガには群像表現がおおく登場する。

俯瞰的に群衆を描く視点は、冷静で客観的ながらも個々の人物の個性や考え方の違いを描き出している。どこかで手塚治虫本人が書いていたと思うけど、これは手塚が漫画家デビュー前に劇団で演劇をやっていたから自然と出てきた発想だった。

手塚治虫『メトロポリス』より

わたしが「天井桟敷の人々」やカルティエ=ブレッソンの写真を連想したパリの雑踏。それは外国文学の挿絵にも独自の解釈で活かされていた。

ドストエフスキーの名作『罪と罰』も、ヴァロットンの手にかかれば当時のフランス情勢を反映させた鋭い風刺になる。ほかの作品にも共通する、とてもヴァロットンらしいアレンジだ。

図録より、ヴァロットン版『罪と罰』の一部

わたしがここで連想したのは、おなじく原作から大胆なアレンジを施していた手塚治虫の『罪と罰』。さきほど触れたように手塚治虫には演劇の経験があった。実際に「罪と罰」も演じたらしい。

手塚治虫『罪と罰』より

このヴァロットンの『罪と罰』は、展示室の中央の柱に映写されていた。マンガのひとコマひとコマを観ているようだった。共通するシーンはないものの、そこに手塚版『罪と罰』が映し出されていてもたぶん違和感がない。

ところどころにあったアニメーション化されたヴァロットン作品の上映は、とても面白い演出だった。

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冒頭に書いた空想のフックに吊るされた記憶。

現代の印象派バーニー・フュークスによる光あふれる世界の向こう側にあったヴァロットンのモノクロームの世界。そのさらにずっと向こう側には、ヴァロットンだけでなく19世紀後半から20世紀前半にかけてのパリの人間模様が浮かんできた。それはこの展覧会の特別関連展示のおかげだった。

三菱一号館美術館のコレクションは、ヴァロットンだけでなく、アンリ・ド・トゥールーズ=ロートレックなど19世紀後半のフランス絵画が充実している。同館が姉妹館提携している南仏アルビのロートレック美術館。ここが開館100周年(!)を迎えたということで、特別関連展示としてヴァロットンとトゥールーズ=ロートレックふたりの交流に着目した展示コーナーがあった。

その内容は、たとえば下の写真みたいな同一モデルを描いた作品など。ヴァロットンの異邦人の眼差しと、トゥールーズ=ロートレックの人たらしの眼差しが対照的でありながら共通していて興味深い。

図録より、南仏アルビのロートレック美術館100周年を記念した特別展示のページ

パリ♡グラフィック展

ここでわたしが思い出したのは、5年前の2017年12月。同じ三菱一号館美術館で「パリ♡グラフィック ロートレックとアートになった版画・ポスター展」という展覧会がおこなわれた。その時はトゥールーズ=ロートレックが展示の中心。時代の空気を閉じ込めたような画面と一癖も二癖もある個性ゆたかな人物画の数々。

その「パリ♡グラフィック」展にもいくつかヴァロットン作品が展示されていたのだけど、完全に添え物としての位置付けだった。正直に言うと、わたしは5年前の時点ではヴァロットン作品の魅力にさほど注意をはらわなかった。

今回の展示作品を観て、あぁこれはたしかあのときの・・・と思い出すのが関の山。あとから5年前の図録を振り返ってキュレーションの妙を実感する。

「パリ♡グラフィック」展の図録より。ドガやべナールの作品とともに今回のヴァロットン展のポスター、『アンティミテ』からの木版画《嘘》が掲載されている。

ヴァロットン—冷たい炎の画家展

そのさらに3年前の2014年には、本邦初というヴァロットンの回顧展「ヴァロットン—冷たい炎の画家」があった。私の記憶にあるのは油絵の数々。その時の図録を見返したら今回展示されていた版画もおおく展示されていた。同じようなモチーフを油絵で描いたものもあった。

ヴァロットンの油絵は写実的ながらどこか冷徹。天性のデザインセンスなのか、配色もモノクロームの木版画と同様にどこか現代的だ。そうそう、ちょっとエドワード・ホッパーの作品に近い感覚を覚えたのを思い出した。

「ヴァロットン—冷たい炎の画家展」の図録より、《赤い部屋、エトルタ(ヴァロットン夫人と姪のジェルメーヌ・アキオン)》(左)と《アレクサンドル・ベルネーム夫人》(右)

このときの回顧展はヴァロットンの版画と油絵両方から偉業を振り返る意欲的な内容だった。しかしながら、わたしは版画を油絵の下絵のように捉えていたせいか、その魅力を見逃していた。それから9年ちかくが経ってようやく気がついたということになる。

芋づる式という言葉は便利な言葉だ。まさに芋づる式に古い記憶がどんどん蘇ってくる。空想のフックの向こう側から次々と引っ張り出されるのは芋ではなく過去の展覧会だけど。記憶の呼び出しはまだまだ続く。

トゥールーズ=ロートレック展

さらにいまから10年以上も前の2011年、これまた三菱一号館美術館の企画展。同館のコレクションにフォーカスした2回目の展覧会だった。今回も特別関連展示として登場していたトゥールーズ=ロートレックの多色リトグラフ。

「トゥールーズ=ロートレック展」の図録より、《ディヴァン・ジャポネ》(左)と《ザ・チープ・ブック》(右上下)

この黒い服装の女性のポスターは今回のヴァロットン展でも観ることができた。モデルはジャンヌ・アヴリル。ムーラン・ルージュのスター女優だ。華やかな舞台の様子はヴァロットン作品にはないロートレックらしい描写だ。

いや、ロートレックらしさは歓楽街の人びととの親密な交流から滲み出す、その親密さだ。常に距離感があったヴァロットンとは対照的な魅力がある。

これだけヴァロットンの版画を観たあとだと、その対照的なところがことさらに感じられる。だけど、共通点も見えてくるような気がする。この黒のシルエットの使いかたってもしかしてヴァロットンを参考にしたのかも・・・なんて思えてくる。トゥールーズ=ロートレックの画面構成は、世間ではジャポニズムにからめて日本の浮世絵の影響といわれている。ほんとうにそれだけだろうか。

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空想のフックに吊りさげた記憶の数々。過去の展覧会、映画、写真に漫画・・・とその芋づる式に出てくるモノには際限がない。じつを言うと、黒と白による陰影から谷崎潤一郎の『陰翳礼讃』、そして谷崎文学とトゥールーズ=ロートレックという楽しげな連想をしてしまったのだけど、さすがに収拾がつきそうにないので、そちらはまたの機会にしたい。

そうそう、今回のヴァロットン展、モノトーンのコーディネートで行くと入館料を100円値引きしてくれる。わたしの直後にチケットを買っていた人がその恩恵を受けていた。来館者の服装を展示作品と調和させようという試みがおもしろい。

わたしは赤いマフラーをしていたので値引き対象にはならず。展示との調和でいえばちょっと場違いだったかもしれない。それはそれとして、今回の「黒と白」などわかりやすいテーマがあれば、コーディネートを調和させて観にいくのも記憶にのこす方法としては良いアイディアだと思う。次はどの展覧会にどんなコーディネートで行こうかな・・・と考えるのもちょっと楽しい。


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