メタ視点のMET視点—西洋絵画500年の試行錯誤
5月いっぱいまで開催されていた「メトロポリタン美術館展」。西洋絵画が好きなわたしはとうぜん足を運んでいたのだけど、なかなかnoteに書けないままふた月ちかくが過ぎてしまった。
副題「西洋絵画の500年」のとおり、初期ルネサンスからポスト印象派までを選りすぐりの65点で概観するという展覧会。65点という作品数は、美術館の特別展の規模としてはけっしておおくはない。むしろたったそれだけで西洋絵画史をまとめるなんて無謀じゃないか・・・と、はじめは思った。貸し出してくれるメトロポリタン美術館の膨大なコレクションを考えればなおさらだ。
ニューヨーク、マンハッタンにあるメトロポリタン美術館、通称The MET。わたしは2018年にニューヨークに出張した際、到着したのが土曜日の深夜だったのを幸いに、翌日の日曜日にMETを訪れた。ニューヨークの同僚はMoMA(ニューヨーク近代美術館)をすすめてくれたけれど、古典絵画が好きなわたしにとってはMETのほうが優先すべき訪問先だった。
今回の特別展のために来日した作品も、すべてではないけどその時に観た。あまりにMETの展示が膨大すぎて、観たような観なかったような記憶が曖昧なものもある。
今回の展覧会の冒頭にあった、METの館長マックス・ホライン氏のメッセージ。そこには次のようにMETの特長が書かれていた。
創設時に手本にしたというヨーロッパの美術館は、王侯貴族のコレクションが元になっている。だからこその質の高いコレクションではあるのだけど、君主の趣向に偏っているのは否めない。
米国にはヨーロッパのような伝統はない。しかしながら、さまざまな人びとが集まり、新たな文化を発信できる力がある。大都会ニューヨークはその人びとの力が集中する場所だ。METはメトロポリタン(=大都会)を名乗るだけあって、その多様性をこの美術館のコレクションの強みにしている。
そう、この特別展に集められた65点は、西洋絵画史の各時代を代表する作品としてだけ選ばれたのではない。METの多様性の代表例でもある。
コレクションを形づくるうえでの多様な視点、画家たちの視点、作品に反映された時代の空気感。展示作品には、表現する側、選ぶ側、鑑賞する側それぞれの個性が滲み出している。その個性は、METのもつ多様性に通じている。
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百聞は一見に如かず。わたしがMETの個性を感じた作品について、図録をめくりながら紹介することにする。
ほぼ時系列に沿って展示されていたこの展覧会。はじめは初期ルネサンス。まだ中世の残り香を感じさせるテンペラ画が並んでいた。
フラ・アンジェリコといえば均整のとれたフレスコ画《受胎告知》を思い出す。あまりの印象の違いに驚いた(帰属については異論もあるとか)。金地テンペラの板絵は中世からのメディアだけれど、遠近や人物表現はとてもルネサンスっぽい。生き生きと描かれた人物にはそれぞれにモデルがいたか。
フィリッポ・リッピのほうは20年ほど後の作品とのこと。描写がさらに写実的。フラ・アンジェリコの磔刑図は金地だったのに対して、こちらは聖母と天使の光輪だけに金がつかわれている。磔刑図とは対照的に人物は無表情。それがかえって遠近や陰影の表現のインパクトを引き立たせている。
度肝を抜かれたのが、ピエロ・ディ・コジモの《狩りの場面》という大作。ルネサンスに連想する調和のとれた穏やかな画面とは正反対の野蛮で荒々しい狩猟の場面。ケンタウロスなんかもいて神話の世界だというのがわかる。中世ヨーロッパの世界観では身近だった半人半獣の怪物や妖精。これらは、近代以降も人びとの心に生き続けた。それにしてもこの凶暴な狩の場面の荒々しさ。MET館長の言葉にある「流れに逆らうコレクター」によってもたらされた作品なんじゃないだろうか。
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西洋美術とは切っても切れないテーマにキリスト教がある。先に磔刑図を挙げたけど、負けず劣らず聖母子もかなりの数にのぼる。フィリッポ・リッピの聖母子は没個性的だった。ほかに展示されていた聖母像には人となりが表れている。聖母マリアとイエスの姿を借りて、人びとは自分たちを投影していたのだろう。
15世紀ヴェネツィアのクリヴェッリの聖母子には、ヴェネツィアらしい色彩に騙し絵的な描写が同居している。図像学的な情報量がおおい。迫真の細部描写には神の存在を宿らせているのだろうか。あきらかに北方ルネサンスの影響がある。ほぼ同時代、その北方のバウツの作品には、対照的に人物だけしか描かれていない。疲労感が漂う聖母の表情。そうそう、育児の現実ってこんな感じだ。人間性の解放を標榜したルネサンスのハートはじつは写実なんだなぁ、とあらためて感じる。時代がくだって17世紀のムリーリョの聖母は、理想化された柔らかな印象。しかしイエスの動きはリアルな乳幼児のそれだ。
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この展覧会のメインは2点のバロック時代の群像画だった。とくにラ・トゥール作品はウェブサイトや図録の表紙になっていたほど。
ここでは左右に並べて展示されていたのだけど、METでは別々の部屋だった。並べられることで見えてくるものがある。
カラヴァッジョの初期作品《音楽家たち》には後年の作品にみられる深い精神性はなく、所狭しと集まった若者たちが一体となった存在感を醸している。明暗による劇的な効果はもちろんバロックのそれ。というか、バロックの明暗表現はカラヴァッジョから始まった。
《女占い師》はラ・トゥールのいわゆる”昼の絵”。狡猾な女性たちに囲まれた青年。登場人物の視線と手の動きが雄弁に状況を伝える。このような”いかさま師”モチーフはカラヴァッジョが先んじて描いていた。そう思うと、左隣に掛かっていた《音楽家たち》の先見性が際立つ。奥からこちらに視線をおくっている青年はカラヴァッジョの自画像。展覧会の白眉《女占い師》をさらに超越したところから見おろすかのような余裕を感じてしまう。
ほかにもバロック絵画は比較的おおく集められていた。次はフェルメールとレンブラントによる擬人化作品。
フェルメールの《信仰の寓意》は、図像学の教科書のように明確なモチーフが散りばめられている。画中画の磔刑図、原罪をあらわすリンゴ、そしてヘビ、葡萄酒・・・。この絵の注文者はカトリック関係者なのだろう。あからさますぎるモチーフがかえって白々しい。そう思うと、地球儀に片足をのせた人物が、やけに芝居がかっている。モデルは内心「あ〜あほくさ」とか呟いていそうだ。これ、注文者の希望にこたえるべくして描いたカトリック礼賛の図像ながら、フェルメールはその”あほくささ”を描いていたんじゃないか、とも思えてくる。
レンブラントの《フローラ》は春の象徴。フローラは、ボッティチェリの《春(プリマヴェーラ)》にも描かれている花の女神。自画像もふくめてレンブラントはしばしば扮装した人物画を描いている。これもきっとそんな扮装人物画で、花の冠(帽子?)をかぶって前掛けに摘んだ花を入れている。全身が花づくしのボッティチェリのフローラと違ってかなり慎ましい。前々から思っていたのだけど、わざわざ扮装と分かるように描いたレンブラントは皮肉のつもりだったのではないか。扮装させているけど、それであえて人物の個性を引き立たせようとしていたんじゃないだろうか。
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少なかったけれど、風景画もある。17世紀オランダのライスダールとホッベマの2枚。ふたりは師弟関係にあった。ライスダールが師匠。
どちらも自然のなかの道を描いている。その道を歩く人物もちいさく見える。人物や人工物にたいして、大地や樹木、空がおおきく描かれている。人間なんてじつにちっぽな存在だ。だけどこうしてヒトは道をつくって歩み続けるものだ。
ライスダールもホッベマも、似たような風景画をおおく描いている。今回の展示作では一点透視構図のホッベマ作品のほうがわたしの好み。だけどもっぱらアトリエで構成して描いていたライスダール作品には、彼なりのメッセージがある。
ライスダールは《穀物畑》と題をつけているのでわかるけれど、わたしははじめ画面右下の空間を水面かと勘違いした。なるほど、これは畑だ。よく見れば画面左の遠景も畑。そして粉をひく風車がある。森林はごくわずか。この絵は、人間活動の領域が大半を占めている。そうすると限られた自然物である重そうな雲がさらに重たく見えてくる。森林や河川をおおく描いたライスダール作品として意識すると、手を入れすぎた自然からのしっぺ返しを予感させるかのような不安感が漂っている。
風景画の別ジャンル、海景画もあった。以下はヴェネツィアを描いた2点。
18世紀のグアルディは、ヴェネツィアの画家一族に生まれた風景画家。わたしは知らなかった。日ごろ見慣れたヴェネツィアの様子を描いたのだろう。なんとなく感じるヴェネツィアらしい色彩と岸辺からの風景。おおくの船が描かれており、船上にいる人びとが克明に描写されている。
いっぽうで英国人ターナーの作品は、橋の上なのか船の上なのか、おなじヴェネツィアを描いているのに視点がおおきく異なる。この作品は、会場の照明も手伝って図録以上に画面が輝いて見えた。この光り輝く感じは、ターナーが曇り空のおおい英国出身だからこそ地中海の光に感じた感覚なのかもしれない。
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次は18〜19世紀の女性画家による作品。
わたしはどちらの画家も知らなかった。解説によれば、ヴィジェ・ル・ブランは父親も画家で、マリー・アントワネットの肖像も手掛けたとか。マリー・ドニーズは、建築家ヴィレールと結婚して「ヴィレール夫人」の名で知られたらしい。確認されている作品は3点のみと、とても限られている。この《マリー・ジョゼフィーヌ・シャルロット・デュ・ヴァル・ドーニュ》も帰属が長らく不明とされていた作品だったらしい。
18世紀フランスの女性画家による肖像画。1年半ほど前にBunkamuraで観た『燃ゆる女の肖像』という映画を思い出した。画家に限らず職業人のほとんどは男性に限られていた時代。貴族の女性のお見合い用の肖像画として、女性画家のニーズが実際にあったのかどうかはわからない。この展示作品にもそんな背景があったのかもしれない、と妄想してしまう。
そんな妄想はさておき、このヴィレール作品はミステリアスだ。逆光で描かれているということは、この女性が描いている対象すなわち画家自身には光が当たっているはず。絵を描く女性の全光の肖像画なんてあっただろうか。いや、『燃ゆる女の肖像』みたいに回想して描かれたという可能性もあるか。そして背後の割れた窓と、遠景にちいさく描かれた男女のカップルの意味するものは。ひょっとしたら、現代とは比較にならないほど抑圧された社会での、マイノリティによるメッセージだったりはしないだろうか。
最後に社会性を帯びた近代の作品。
風刺画をおおく描いたドーミエは、ここでも鋭い視点で鉄道を利用する人びとを描いている。未完成作だけど、それがかえって効果的に見える。どこへ行くのか、普及し始めた大量輸送手段に揺られて虚な表情で旅をする家族たち。
そしてバレエの舞台裏を切り取ったかのようなドガの作品。踊り子の動きと配置、フワフワと揺れていそうな衣装。隙のない構図。さすがだと思う。そして、画面右側の影にひそむ男の黒いシルエット。ドガの作品には、しばしば場違いにも見える男性の姿が描かれる。男性は舞台を取り仕切る権力者か、あるいは踊り子の少女たちを物色しているのか。真っ黒な影法師として描かれているところがまた、社会の闇を暗示している。
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まだまだ書いておきたい展示作品はあったけれど、キリがないのでこのあたりでおしまいにする。
個々の作品もとても興味ぶかく味わいぶかいのだけど、展示構成は副題のとおり500年の西洋絵画の潮流を概観できるものだ。実際の作品が集められた空間には美術史の書籍とはちがった説得力があった。
人間性の解放を目指したルネサンス。それ以降、西洋絵画はわたしたち人間と人間を取り巻く世界をいかにとらえて表現するかの試行錯誤を繰り返してきた。技術的には遠近法や明暗表現が生み出され、解剖学や分光学など関連する諸サイエンスも発達した。描く内容にも伝統的な図像学の援用、擬人化、あるいは伝統を超えた表現が試みられた。今回の展示で、ルネサンス以降に西洋絵画が求め続けた”なにか”が見いだせそうな気がした。
近ごろよく聞く言葉に”集合知”という語がある。おおくの知識や思考をあつめて分析すると、より高度な知性が見いだせるというもの。個別ではなく、あくまでも集合として見えてくるなにか。人工知能(AI)そして機械学習とはとても相性が良い概念だ。
多様な絵画作品が集まることによる集合知・・・これって、わたしたち美術ファンが大量の作品鑑賞を続けることで到達できるかもしれないんじゃないかとも思う。
西洋絵画の目指した”なにか”が感じられたのは、冒頭に書いたようにMETあるいはニューヨークの持つ多様性のおかげかもしれない。とすると、もっと多様な視点がもっと大量にあつまったらどうだろう。
多様性の宝庫のようなMET。そのMETの特別展。購入した展覧会図録を書棚に片付けたとき、ほかの大量の図録のうちの1冊になった。集合知を示唆する1冊が集合知の要素になった。
これはまたの機会に書くつもりだけど、わたしはあらたな絵画表現ができないだろうかと考えている。メタ視点のMET視点、おおいに参考になった気がする。
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