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Kyoto Creative Assemblage 体験記 (Part3)
KCA体験記、Part3 になります。KCAって何ですの?というかたは、まずこちらを読んでいただければ幸いです。
以下、この note は、そのPart3 にあたります。ちなみに、Part2 はこちらから。
Part3 : 特徴
Part1 では「社会をよく見て、表現する」というテーマのもと、京都大学で学びました。続くPart2 では、舞台を京都工芸繊維大学に移し、「ありうる未来の生態系を思索する」ことにトライしました。
そして最後のPart3 では、プログラムの主幹は「京都市立芸術大学」に移ります。ここでは便宜上、その芸大パートを "Part3" と呼びますが、実際にはPart1 - Part2 と並行して行われました。概念的にもスケジュール的にも、Part1 の記事中で紹介したカリキュラムの模式図の通りです。
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さて、何はともあれ「芸大」です。Part3 は、Part1・2 とは全く異なるスタイルで学ぶことになります。ここでは理屈や論理は一旦、脇に置いておいていいわけですね。必ずしも言語化しなくてもいい。見て、手を動かして、見て、手を動かす。感じて、感じる。Don't Think, Feel. 以上、終了で全然OK。
言語化することは「分ける」ことです。これは "Aである"、ということはつまり、"A以外のものではない" ということであって、そういう二項対立をベースに切り分けることで考え理解するためのツールが言語ですが、それを保留し、分けることを抜きに「身体的に分かる」ことを志向するのがPart3 です。哲学史的には、二項対立の先にデリダやドゥルーズが存在するので、結局、ここでの身体感覚はPart1 で登場する「イデオロギーの星座」の延長線上にも位置付けられます。
また「手を動かす(描く・つくる)」の手前の段階として、人なり対象なりを「よく見る」という段階がもちろんあるわけで、そこの部分で大きく、Part1 やPart2 のテーマとも通底しています。つまり、私たちは本当によく見ているのか? という「現状認識の仕方」「時代や社会、人への眼差し」に対する自問・自省ですね。それを言語ではなく身体を通じて、感覚として手に入れる補助線。それがPart3 の役割として位置付けられているのです。
…が、そんなことをつらつら述べていても所詮は言語のスケールでの話なので、ここからはこのPart3 での体験のありのままをレポートしていきます。
Part3 : 実践
Part3 は全6回。それぞれ次のようなテーマが与えられています。
1, 身体で聴く・描く
2, 写生の本質(にわとりを描く)
3, 絵の中に人をたたせる(人を描く)
4, 遠近法の体験(装置で描く / 一点透視図法 / パースペクティブ)
5, 多視点で捉える(キュビズム / 多視点を1つの中に収める)
6, 視覚以外で見る(触覚による造形)
以下、6回の詳細について述べていきます。
1, 身体で聴く・描くでは、まず全員に墨と筆が配られました。そして尺八とバイオリンの奏者が現れ、その2人の演奏を聴きます。その上で「この2人の演奏を聴いて自由に描く」というのが課題①。続いて全員が描いた水墨画(のようなもの)から数点をピックアップし、今度はその "描かれたもの" を楽譜として、2人の奏者が尺八とバイオリンを奏でます。更にその演奏を聴きながら自由に描く、というのが課題②。いきなり「よく見る」とは異なるところからの切り口でしたが、これはこれで大変貴重な体験でした。
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どんどんいきます。
2, 写生の本質で配られたのは、デッサン用の紙、鉛筆、ねりけし。それを使って生きている鶏を描きます。ただそれだけ。動く生き物を「よく見て」、ひたすら描く。
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3, 絵の中に人をたたせるでは、講師の先生方(芸大の教授です)をモデルに、一枚の画用紙の中に「人を立たせる」とはどういうことか、を考えながら描いていきます。対象は人物ですが、モデルとなっている先生方はときに足踏みをしたり、ときに立ち竦んだり、ときに重いものを持ち上げたり、絶えず何かしらの運動をしています。その時々の筋肉の動きや佇まいを「よく見て」、描いていくという課題です。
4, 遠近法の体験では、カメラ・オブスキュラの擬似体験を通じて、装置を使って現実を「よく見る」感覚を掴んでいきます。小さな穴の空いた箱と薄くて透明なシート、細い油性ペンを用いてカメラの原理を再現するようなイメージですね。対象は、芸大の中の場所ならどこでも良い、ということで、みんなでキャンパスの中をグルグル歩きながら、それぞれ気に入った場所を決め、一心不乱に現実をトレースしていきました。
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ちなみにぼくは下のようなのができました。元の写真がないので分かりにくいですが、芸大の食堂?みたいなスペースの前にあるビラの掲示スペースです。某チョコレートブランドのキャラクターが印象的でした。
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5, 多視点で捉えるは、キュビズムです。2人ひと組になって互いの顔を「よく見て」超ヨリの写真を膨大な枚数撮影し、それらを組み合わせて1人の人間の顔を作るという課題。出来上がった顔は「どちらの顔でもあり、いずれの顔でもない」という不思議な感覚がありました。ゴリゴリの個人情報満載のワークだったので実例をアップするのは避けますが、部分的にはこんな気分です。
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こういうふうに撮った写真を重ねていって、ひとつの顔にしていきます。重ね方のルールも、チームそれぞれにユニークでした。
最後の 6, 視覚以外で見るでは、目で見ることから離れ、視覚以外の感覚を使って「よく見る」ことを体験しました。具体的には、アイマスクをした状態で、触覚のみを頼りに造形物を作る体験です。作ったものの鑑賞も触覚のみで。最終的に自分がどんな造形物を作ったかは、最後まで明かされませんでした。
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以上が、全6回の全貌になります。最後にこれらの作品群をまとめて、京都の「みやこめっせ」という場所で作品展(のようなもの)を行いました。その様子も撮影したので、見せられるところだけ、お見せします(第5回キュビズムの課題は除く)。
Part3 : 思ったこと
以上、KCA Part3、芸大パートでした。やっている間はフツーに楽しく、一生懸命に描いたり作ったりしてしまいました。小学校のころの図工の時間、ともまた違う感じでしょうか。作例みたいなものも与えられなかった(明確な "お手本" のようなものはなかった)ので、正解を探る必要もなく、自由に心の赴くままに「よく見て」つくることを体験できたなと思います。
Part3 では、講義を終えてから、次のような達成目標が示されました。
・様々な事象にある〈部分〉と〈全体〉の関係性を非言語で把握する感性の獲得
・内省から始まる批評性の獲得
・これまでもっていた価値観を、自明 / 前提 / 常識に囚われずに再構築する経験の共有
掲示されたスライドを手打ちしたものなので、上記の表現について、多少言葉尻に不安なところもありますが、概ねこういったことが狙いではあった、と。「感性の獲得」が達成されたかどうかは、個人的には非常にアヤシイところもありますが笑、やっぱりPCに向かってものを考えるのとは違った「考え方」、より人間的…というと少し言葉が違う気もしますが、ツールやインターフェースによって「考え方」や「見方」は自ずから異なるものになっていくはずで、だからこそ "スクリーン" や "キーボード" から離れて「見る」「感じる」「考える」ことはとても大事なんだなと、改めて認識することができた体験でした。
何より、Part1 や Part2 に比べて、受講者みんなの雰囲気が良い(というとPart1 や Part2 の先生方に怒られそうですが、あくまで相対的印象論です)のも良かったです。故坂本龍一 "教授" の著書に倣って云うなら「芸術は自由にする」のでしょうね。言語から解放された空間では、関係はフラットになりやすい。ラベルやタグにまみれた大人たちにとって、ある種のラベルを離れられること、その上でそれぞれの感性について議論できることは、とても貴重な場であり時間であるのだなとしみじみ思いました。
さいごに
これまで3つの記事を通して、KCAの体験談をまとめてきました。ここでは書き切れなかったこと、個人的にもまだまだ理解し切れなかったことが沢山あります。ぜひ興味を持った方は参加していただけたらと思いますので、こちらのTwitterを注視していてください。きっと今年度も開催されると思いますので。
それから、このKCAでとても考えさせられたことを最後にひとつ、紹介します。
それは芸大Part の6回目のときに来てくださった全盲の文化人類学者、広瀬浩二郎先生がおっしゃっていたことです。先生は食文化ならぬ「触文化」の提唱者で、現在、国立民族学博物館の准教授として様々な学術研究や展示の企画に携わっていらっしゃる方なのですが、先生曰く、「目で見る」ということは〈対象化〉すること、すなわち〈はなれること〉だ、と。それに対して「触ってみる」ということは〈同一化〉すること、すなわち〈つながること〉だ、と、そう言っていたんですね。
ぼくはこの話を聞いたときかなり堪えました。もちろん堪えたと同時になるほどとも思ったんですが、気持ち的には「堪えた」のほうが近かった。なんだろうな…、今までぼくは何を見てきたんだろう、と、逆に「何を見落としてきたのだろう」と。そんな気持ちになりました。そして、広瀬先生はたぶん、ぼくよりも世界をちゃんと見えているのではないか。そんなふうにも思いました。
続けて、広瀬さんは茶目っ気たっぷりに、このように言います。
みなさんには、「見識」のある人、というだけではなく、「触識」のある人になってほしい。
この言葉遊びだけをとっても、いかに私たちが「見る・見える」ということの前提や常識に囚われているか、が分かります。見て、対象化して、分かることもあれば、触って、同一化して、分かることもある。サン・テグジュペリ『星の王子さま』の一説なんか、何回も聴いたし読みました。使い古された常套句の感さえあります。でもこのとき初めて、「大切なものは目には見えない」ということを、ぼくは自分ごと化できました。何かひとつ、このPart3 で学んだことを言語化するとすれば、このことかなとぼくは思います。
この記事でKCAの報告としては最後になります。先生方、スタッフのみなさん、そして同期のみなさん、本当にありがとうございました。そしてお疲れ様でした。