見出し画像

鑑賞プログラムとは何か?という話と、カードを使った鑑賞の話

鑑賞プログラムとは

僕は自分が鑑賞に関わる活動について、プログラム、プログラマーという言葉を使っている。

「プログラム」という言葉はざっくり言うと、行為や出来事の組み合わせや順序のことで、「プログラマー」とは、そういった組み合わせを設定する人ということだ。

よって、本来は万人が自由に関わるはず鑑賞の中で、「まずこうして、次はこうする・・」という、指示や工程を組み合わせることや、それを実施することが、鑑賞プログラマーの役割ということになる。

無限の関わり方、解釈の方法がある鑑賞を、プログラムの縛りで有限化することで、ある部分にスポットを当て、立ち止まってよく考えられるようにしている。

プログラムの塩梅

他人の作品を目の前にしたとき、無限の解釈の可能性に、ちょっと唖然となる感覚があったりする。それは絵や文章をかき始めるときに、真っ白画面に向かう気持ちに似ている。まずは何から取り掛かるべきか、そのきっかけが欲しくなる。

また、たとえ思考が走り出したとしても、それはそれでちょっと不安が残る。これは魅力的なものになっているのか、これで大丈夫なのだろうかと。

そういった不安を取り除いてくれるのが、自分を外から規定してくれる枠組みだ。「こうしなさい」「こういう指定がありますよ」という指示があった方が、返ってのびのびと思考やイメージが伸ばせたりすることがある。

ただ、難しいのは、あまり強力な縛りもよくないということだ。枠組みの内側の自由度が少ないと、テストの問題文のような指示になってしまって、似たようなアウトプットしか出てこなくなる。

自分の考える鑑賞プログラムは、誤読の可能性や、ブレーキでいう「あそび」部分の塩梅が大切だ。

組まれたプログラムが実際に走り、参加者が関わることで、「え、こんな鑑賞があり得るのか!」と、設定した枠組みの外側がみられるものでないと実施する意味はないし、プログラムは参加者を完全に縛るものではなく、逆にハックされたり、書き換えられてしまうような工程もプログラムされているべきだと思う。

卜術的なプログラム

指示はあるが、どう読みとくか、そもそも従うか、さらにはどう従うかの解釈は当人次第・・そんな良い塩梅の関係性をもった何かが、自分の考える鑑賞のプログラムに必要で、そこで最初にイメージしたのが、タロットカードやおみくじのような「占い」だった。

占いといっても、大きく分けると以下の3種がある。

「命(めい)」:生年月日から運命・宿命を占うもの
       ・何度占っても結果が変わらない。(占星術など)

「卜(ぼく)」:道具を使い、偶然の結果を元に占う
       ・占うたびに結果が変わる(タロット・おみくじなど) 

「相(そう)」:目に見える姿形から占うもの
       ・時期によって結果が変わる(手相・姓名判断など)

その中で、特にアイテムが使えたり、連続で行っても結果が変わる要素を持った卜術(ぼくじゅつ)に惹かれた。最初に興味を持った、タロットカードや、おみくじも、卜術の一種だった。

テキストやイメージに偶然出会い、そのメッセージを状況と勘案して読み解き、解釈する。受け取ったものをどう行動に繋げるかも当人次第。
その関わり方の塩梅が、自分の考えるプログラムと参加者の関係にちょうど良いなと感じたし、それはまた、美術作品への向き合い方にも重ねられるとも感じた。

カードを使った鑑賞プログラム

2018年 宇都宮美術館「饒舌な常設」で作ったのは、11種類のカードだった。以下のページでカードを擬似的に引いて遊べるので、見てみてほしい。

PC 距離「白」のコピー

PC 以外のコピー

・・といったように、カードの文面にはどう捉えて良いやら、あまり具体的ではない、「意味ありげな」言葉が書かれている。「意味ありげな」というのは、意味が有るような無いような‥要するにどんな意味として認識するかはカードを引いた当人次第ということだ。この言葉を胸にどう鑑賞を行うのか、実際にプログラムを実施すると、そこにはさまざまな解釈があった。

さらに、今年はオンラインでの鑑賞プログラムで、イメージと英訳の要素を付け加えた新たなシリーズのカード鑑賞も制作した。以下のリンクで、カードが引けるので参照して欲しい。

画像2

画像3

それぞれテキストとイメージには、同一のカード上にあるという以外に関連はない。ただ、我々は何かを隣り合わせにすると、そこに意味や因果関係を生じさせてしまうらしい。

テキストのみだった「饒舌な常設」に比べ、この新シリーズのカードには、関連付けられる要素が増えたため、鑑賞作品を解釈する前に、まずこのカードについて解釈する必要があった。

この2重の解釈があることによって誤読、解釈のズレがより大きくなり、プログラムでのアウトプットも大変に良くなった。

「自分の解釈」

「自分の解釈」というものがあるのだろうかと考えることがある。

僕たちは、周りの環境、今まで自分に起こったこと、自分ではない外部の様々なものによって、解釈させられている節がある。また認知には、自分で把握できる意識下のものと、はっきりつかめない無意識下のものがある。後者は自分でありながら意識できない「内なる外部」と言えるかもしれない。

そんな自分と、自分ではないものに、意識的、または無意識的にやりとりをし続けながら、解釈が作られる。解釈は自分で制御・認知できない外部の要素と共にあるもので、そんな思考を呼び寄せる依代となるものが、これらのプログラムで使うカードだ。

「見ることは、作ること」。私は鑑賞は創造的なものだと考えているが、自分の思考がどこかで自分のものではないように思うとき、最もクリエイティブな瞬間が訪れているように感じている。

この記事が参加している募集

noteのつづけ方

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?