見出し画像

場外市場だけではない。近代が始まった築地を歩く。

築地といえば築地市場、場外市場を思い浮かべる人も多い筈ですが、そればかりではありません。
江戸からの歴史の積み重ねがあります。築地は、江戸時代1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に焼失した浅草御門南の西本願寺(現在の築地本願寺)の代替地として、佃島の住人によって文字通り土地が造成されたものです。その後、浄土真宗の寺院や墓地が次々と建立され、周辺は寺町のようになりました。

更に江戸末期には、幕府は軍事力増強を目的として築地に講武所を設け、後に海軍部門の軍艦操練所を設置、勝海舟らが教授として赴任しました。1869年には築地鉄砲洲(現在の湊から明石町)に外国人居留地も設けられました。また、中津藩藩士福澤諭吉が蘭学塾(のちの慶應義塾)を開いた場所でもあるのです。


マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。

築地駅から歩き始めました。駅を出ればすぐ目の前に築地本願寺が見えます。築地本願寺は「レトロ建築」で取り上げますが、最初に目にした時には誰でも仏教の寺という既成概念を打ち壊すユニークさに驚きます。その築地本願寺に忠臣蔵ゆかりの史跡があります。

間新六之塔 (築地本願寺 )

忠臣蔵の討ち入りの後、義士たちが吉良邸から泉岳寺に向けて引き揚げる途中でこの築地本願寺の前を通りました。死を覚悟していた間新六は自身の供養を築地本願寺に願い、槍に書状と金子を結びつけて投げ入れたといいます。
その供養塔が現在の築地本願寺に残っています。

築地本願寺
間新六之塔
間新六之塔
間新六之塔 説明板

築地本願寺から明石町、聖路加国際病院の方へ歩きます。

旧聖堂の鐘「江戸のジャンヌ・ルイーズ」(カトリック築地教会)

竣工年は1927年(昭和2年)、設計はジロジアス神父の近代レトロ建築。関東大震災で聖堂が焼失・倒壊。再建された聖堂は古代ギリシアのドーリア式神殿を忠実に模して木造モルタル造にて建設されています。カトリック築地教会はレトロ建築の記事で詳しく取り上げます。なお、旧聖堂時代の石膏の聖ペトロ像は震災の被害を免れて現在も安置されています。

その旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治9年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたものです。教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な痕跡です。

カトリック築地教会
旧聖堂の鐘「江戸のジャンヌ・ルイーズ」
旧聖堂の鐘「江戸のジャンヌ・ルイーズ」

築地外国人居留地跡 (中央区立明石小学校)

中央区立明石小学校は震災後に建てられた復興小学校を建て直したものです。復興小学校時代の雰囲気が復元されています。中央区立明石小学校はレトロ建築の記事で詳しく取り上げます。その角地に築地外国人居留地跡の碑があります。

居留地時代のレンガ塀遺構とガス街灯が残っています。築地外国人居留地は商館の多かった横浜や神戸などと異なり、外国公使館や領事館をはじめ、海外からな宣教師、医師、教師などが居留地に居住し、教会や学校などを数多く開いて教育を行っていました。このため、この場所を発祥の地とするキリスト教系の学校も数多く設立され発祥を記念した石碑も数多く見られらます。築地外国人居留地の人口は最盛期の明治25年では336人だったということです。

中央区立明石小学校
築地外国人居留地跡
築地外国人居留地跡

芥川龍之介生誕の地

芥川龍之介は明治25年に乳牛牧場の経営者の長男として、この地に生まれました。龍之介は生誕7ヶ月にして家庭の事情から母の長兄、芥川家に引き取られて両国に移り住んだということです。説明板のみあります。

芥川龍之介生誕の地

アメリカ公使館跡 (聖路加国際病院トイスラー記念館)

トイスラー記念館は1933年(昭和8年)に、聖路加国際病院の宣教師館として建設された風格のある近代レトロ建築です。これもレトロ建築の記事で詳しく取り上げます。

聖路加国際病院トイスラー記念館

この地はアメリカ公使館があった場所で、トイスラー記念館前に碑があります。
アメリカ公使館は1859年(安政6年)、ハリスにより港区元麻布にある善福寺に開設されました。その後横浜に移り、1874年(明治7年)に横浜から築地の外国人居留地内に移転し、1890年(明治23年)まで約16年間設置されていました。
1890年に赤坂に移転され、現在のアメリカ大使館になったという経緯を辿っています。

アメリカ公使館跡

慶應義塾発祥の地記念碑 蘭学の泉はここに碑

この地には中津藩奥平家中屋敷がありました。福沢諭吉の「慶應義塾発祥の地」と杉田玄白らの「解体新書の翻訳が行われた」という、中津藩奥平家中屋敷にゆかりの二つの碑が並んでいます。

慶應義塾発祥の地記念碑(手前)と蘭学の泉はここに碑(奥)
蘭学の泉はここに碑

「慶應義塾発祥の地」は、福沢諭吉が藩命により築地鉄砲洲の中津藩中屋敷に1858年(安政5年)に開校した「蘭学塾」が起源で、1868年(慶應4年/明治元年)、年号をとって「慶應義塾」と塾名を改めました。碑は昭和33年に慶應義塾創立百年を記念して谷口吉郎設計にて建立。

慶應義塾発祥の地記念碑 (正面)
慶應義塾発祥の地記念碑 (側面)

浅野家内匠頭邸跡

聖路加看護大学がある辺りが、播州赤穂藩浅野家の上屋敷があった場所でした。浅野内匠頭邸跡は赤穂内匠頭長距が1701年(元禄14年)に切腹を命じられ赤穂浅野藩が断絶するまで赤穂浅野藩の藩屋敷でした。

浅野家内匠頭邸跡

シーボルトの胸像 (あかつき公園)

江戸蘭学発祥の地であり、シーボルトの貢献は極めて大きいものでした。築地は娘いねが産院を開業した地でもあり、また明治初期に外国人居留地があり、シーボルトにとってゆかりの地となっています。

シーボルトの胸像
シーボルトの胸像

歩く道すがら、特に明石町地区は明治期に築地外国人居留地が設置されたという経緯もあり、カトリック築地教会聖堂やミッションスクールの発祥を記念した石碑などがあり、このような日本の近代創成期の痕跡も見逃せません。

立教女学院発祥の地碑
東京中学院(関東学院)発祥の地碑
暁星学園発祥の地碑

一緒に見て頂きたい築地の関連記事です。

この記事は、私の「東京レトロ街歩きガイド&マップ」サイトのエリア別「Ar-07築地から佃島、月島を歩く」を基に街歩きをしています。記事の内容以外にも街歩き検証はまだですが、All in Oneのガイド&マップになっています。こちらもぜひ参照ください。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?