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築地のレトロ建築(近代レトロ建築-05)

この記事は「場外市場だけではない。近代が始まった築地を歩く」の続編として、近代のレトロ建築に焦点を絞り築地の街歩きをしたものです。

築地、特に明石町エリアは、明治期に築地外国人居留地が設置されたという経緯もあり、日本の近代創成期の遺構やレトロ建築が見逃せません。

また、都内にある町屋や看板建築は東京大空襲で多くが焼失しましたが、築地6丁目、7丁目あたりは焼失を免れた町屋や看板建築がまだ多く残っています。これらは老朽化による建替えや再開発、持ち主の高齢化もあり、どんどん取り壊しが進み消滅寸前になっています。消滅してしまう前に、築地界隈の今に残る町屋、看板建築を歩いて探索します。


マップが見えない方(iPhoneのsafariでは警告が出る)はこちらのリンクから。

近代レトロ建築

築地本願寺

初めて見る方なら、仏教の寺院とはかけ離れた外観にまず圧倒されます。

竣工年:1934年(昭和9年) 設計:伊東忠太。
1657年の「明暦の大火」とよばれる大火事で焼失。その後、再建のため江戸幕府から与えられた土地が当時は海上でした。そこで海を埋め立てて土地を築き本堂を建立したことが「築地」という名称の由来になっています。また1923年の関東大震災により焼失しまし、1934年(昭和9年) に再建されました。

築地本願寺の建物は、インドの古代仏教建築を模した外観や数多くの動物の彫刻などが特徴で、オリエンタルな雰囲気は、まさにシルクロードを伝わる仏教伝来のルーツを感じさせます。その一方で、中央正面に本尊阿弥陀如来が安置しているなど、伝統的な真宗寺院の造りともなっております。

https://tsukijihongwanji.jp/info/history/
築地本願寺
築地本願寺
築地本願寺

聖路加国際病院トイスラー記念館

竣工年:1933年(昭和8年) 設計:バーガミニー。
聖路加国際病院は1900年(明治33年)に来日した米国聖公会の宣教医師ルドルフB・トイスラーが開院した病院です。トイスラー記念館は院長に看護教育宣教師として招かれたアリス・C・セントジョン女史の宿舎として使用されていました。
ハーフティンバー風の山荘を思わせる重厚な建物です。建物は2階建の小規模な洋風住宅ながら鉄筋コンクリート構造を採用し、耐震性と機能性を備えた住宅建築となっていす。

トイスラー記念館
トイスラー記念館
トイスラー記念館

この地には1874年(明治7年)から1890年(明治23年)まで約16年間、アメリカ公使館が設置されていました。アメリカ公使館跡の碑があります。

中央区立明石小学校

竣工年:1926年(昭和元年) 設計:東京市。
現在の校舎は震災後に建てられた復興小学校の一つです。現在の校舎は復元建て直されたものですが、竣工当時の姿をうかがい知ることができます。

中央区立明石小学校
中央区立明石小学校

敷地角に築地外国人居留地跡の碑があり、居留地時代のレンガ塀遺構とガス街灯が保存されています。

カトリック築地教会

竣工年:1927年(昭和2年) 設計:ジロジアス神父。
築地居留地に東京で最初のカトリック教会として築地教会を建設しました。1923(大正12)年の関東大震災で消失してしまいましたが、1927年(昭和2年)には古代ギリシアのドーリア式神殿を模した木造モルタルの現聖堂が完成しました。なお、旧聖堂時代の石膏の聖ペトロ像は震災の被害を免れて現在も安置されているとのこと。

カトリック築地教会
カトリック築地教会

旧聖堂で使用された鐘は、1876年(明治9年)にフランスのレンヌで製作され、当時の司祭であるルマレシャル神父から「江戸のジャンヌ・ルイーズ」と名付けられたものです。教会聖堂と鐘は、かつて外国人居留地のあった明石町に残された貴重な痕跡です。

教会聖堂と鐘

築地6~7丁目の町屋、看板建築

築地は東京大空襲でも焼失を免れたエリアも多く、町屋、看板建築が比較的多く残っています。特に築地6丁目、7丁目あたりには看板建築が集中してあります。この近辺を歩いていると、取り上げた建築以外にも町屋や看板建築を見つけることができます。路地を巡りながら自分で掘り出し物の看板建築や町屋を探し歩く楽しさを実感してください。
(いる取り壊されてもおかしくない建築ばかりです。私も行ってみたら既に取り壊されていた…という経験が少なからずあるということに留意してくださいね。)

大宗旅館

築年は昭和初期で、武家屋敷型木造住宅という造りです。間口の広い旧武家地の敷地に入母屋屋根をかけ、門塀を構えて庭もあります。

大宗旅館

亀屋

築年が1927年(昭和2年)の銅板貼り看板建築です。 築地の老舗のおでん屋さん(すでに閉店かは不明)。角地ですが道路の片面のみに銅板が貼ってあります。

亀屋
亀屋

中央食品

築年は不詳。切妻屋根に銅板貼りというとても珍しい造りです。

中央食品

乾電機

築年は1927年(昭和2年)の町屋です。すでに閉店のようです。この一角の路地は町家が数軒残っており、かつての町並みを彷彿させます。

乾電機
乾電機の並びの街並み

ササヤ

築年は1928年(昭和3年)。軒を立ち上げ陸屋根風に見せる銅板貼り看板建築です。

ササヤ

酒井家住宅

築年は昭和初期。河岸問屋の店員住宅が受け継がれた、小洋館付き町家建築です。終戦後に被災した店員が住める住宅として建てられ、洋館の増築がしてあります。

酒井家住宅

築地場外市場の中にも看板建築が多くありますが、人混みやら混沌として建物の確認も難しいところもありますので、今回は取り上げていません。

カットハウス松原に向かう途中に幕末に幕府が作った軍艦操練所跡の説明版があります。一帯の土地は、かつて、江戸幕府の軍艦操練所があったところです。外洋航海の必要性から幕府は希望者を集めて、航海術・海上砲術の講習やオランダから購入した軍艦の運転を練習させる学校を設置したのです。築地の歴史の一端が見ます。

軍艦操練所跡 説明板

カットハウス松原

築年は昭和初期の3階建てマンサード屋根が特徴の看板建築です。隣に並んで銅板貼り看板建築があり、かつての街並みが感じられます。

カットハウス松原 (左側)

金子家住宅

築地本願寺の隣の人通りの多い角地にある木造住宅。築年は昭和初期の数寄屋風建築です。築地本願寺の塀と連続した門塀、主屋、前庭、正面右脇の路地などが歴史的景観を形成していて、築地本願寺の門前の歴史的雰囲気を今に伝える建物です。

築地本願寺の並びの金子家住宅
築地本願寺の並びの金子家住宅

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取り上げた町屋や看板建築は東京レトロ街歩きガイド&マップのエリア別「Ar-07築地から佃島、月島を歩く」、もしくは「Th-07今に残る近代レトロ建築」に収録されています。

またinstagramでも「近代レトロ建築」を発信していますので、訪問してみてください。


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