見出し画像

オマージュだらけの人生

皆さんはジョージオーウェルの1984年を読んだことはありますか?読んだことがない人は読むことをお勧めします。超ディストピア小説。それからありそうな世界観。オーウェルの傑作です。

まぁ今日の所はこの1984年自体がテーマではなくて、この1984年という小説は影響が大きすぎるのか様々なオマージュがなされています。この前いった本屋には1984年に生まれてという小説がありましたし、僕も読んだことのある1Q84という村上春樹の小説も当然1984のオマージュです。それにヨルシカというアーティストも思想犯という曲でこのオーウェルの1984のオマージュをしているし、ぼくのりりっくのぼうよみ(今は辞職されて、田中という名前で活動されています)もnewspeakという曲でオマージュしています。(そもそもニュースピークという言葉自体1984年で出てくる架空の言語だし)

別にオマージュというのはこの1984年以外の物にだってあります。例えば、中国の昔の話に絵仏師良秀という人物が出てきますが、芥川龍之介の地獄変にも絵仏師良秀は出てきます。

このように芸術には立派な文化としてオマージュが根付いています。

翻って、人間社会ではどうでしょう?誰もが自分らしく生きなさい。では自分らしさって?それは自分で考えなさい。自分を客観視しなさい。でも評価は他人がするものです。自惚れるな。自分らしく生きなさい。でも社会のお荷物にはなってはだめ。なんてまるで堂々巡りのような通説が流れています。

世の中にはマークトウェインが人間とは何かで説いたように、誰しもが機械であるという説があります。つまるところ、人間には自己犠牲などという崇高な行動は出来ないし、それらはすべて自分のための行動です。それに人間にオリジナリティはない。人間は他の誰か、本、自然などの影を踏んでいるだけで、ありとあらゆるアイデアなどは別に自分の頭が創造したわけではない。つまり生き方というのも他人の開いた道を進んでいるだけで、他人の後をなぞっているだけ。という考え方が。

どちらかというと僕はこの意見に賛成です。特に今の時代、ネットというものがより多くの人間が世間に現れ、その多くが相互的に、または放射的に生き方というのを流布しています。そうして誰もが知らない内にオリジナリティという名のオマージュをしています。もっと悪く言えばコピー。

そうしてそうとは知らずにより純度の高いオリジナリティの獲得のため奔走している人がいます。そういう人はいつか壁に当たり、そして気付くんです。「あれ、これは誰々の真似じゃないか?」そうしてアイデンティティというのを失っていく、こんなはずじゃなかった。

でももう一度僕は言いたい。誰もが誰かのオマージュだ。自分らしく生きるということは自分にしかない生き方ではなく、自分がなりたい、そうありたい、生き方であり、それこそがオマージュする人生なのだ。と

同じ1984年という作品をオマージュしてもそれぞれが違った味を持ち、色を持ち、音を持っています。つまりオマージュにもある程度オリジナリティはあるのです。だからもうやめにしませんか?自分らしさで悩むの。

自分らしい生き方という言葉を捨てて、自分のための生き方という言葉が浸透する世の中であれば...

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?