歌と、わたしと、担任と
小学校3年生の春
私の前に現れたのは若くて可愛い女性の先生だった
田舎の小さな小学校だったのでクラスメートは転校生が来ない限り6年間同じだ
なんなら三分の一は幼稚園から同じ、9年間おなじなのである
さて、小学3年生春、8歳、まだまだガキンチョである
先生と過ごした4年間は他の小学生に比べるとおそらく珍しい過ごし方である
私たちは全員毎朝朝練を課せられたのである
なんの朝練かって??
歌、合唱だ。
さてこの朝練、自由参加ではない、強制だ
どこかで発表する予定があるわけでもなく
ミュージカル女優を目指してるわけでもない
わたしたちは毎日音楽室に集合する
家が遠い上に朝が弱いわたしには地獄だった
朝練に遅刻すると来なくて良いと言われ立たされ、宿題をしないとまた立たされる
(立たされるメンバーは割と決まっていた)
割と今思うと厳しかったのかもしれない
小学生の頃は勉強が好きだったので宿題は割とやっていたのだが、範囲を間違えたり対象を間違えたりして立たされていた気がする(脱線)
私たちがなぜ合唱をやらされていたのかは目的が不明だが
この朝練に私はすごく感謝している
歌は今のわたしをつくっている部分の大半を占めることになる
ピアノをやったし日本舞踊をかじってみたしリコーダーも篠笛も吹奏楽も一通りやった
けどその中でも一番好きだったのが歌うことだった
身一つでできるからである
自分の体が楽器なのである
朝練のメニューは発生練習が2種類、残りは練習中の曲を何回か合わせるみたいな感じだったと思う
男の子は声変わりしてないし記憶ないけど
アルトソプラノくらいのわけ方だったかな
3年生以降、毎年行われる学習発表会(お遊戯会?)はすべて歌で繋ぐ物語(発表)だった
3年生の時はたしかモチモチの木、
弱虫豆太の歌をよく覚えている
四年の時は、、あれでてこないな、でも地域の音楽発表会で演奏したはず、が歌っていたはず
五年は地元の売薬さんの研究発表だった気がするがやっぱり歌っていた気がする
5年の終わりごろから周りに内緒で塾に通い始めたのでさらに朝練はキツくなった
(内緒だったのは受験に落ちるとちょっと恥ずかしいから、、でした)
6年の時、、なんだっけやっぱ覚えてないけど歌っていたはず
市のイベントで市に住む小学6年生が全員招待されるという劇団四季を観に行ったとき、小学生全員で歌う場面でまともに歌ってたのはうちの小学校くらいではないか
(この時塾の友達に会えて嬉しかったような記憶もある)
ひたすら4年間歌ってた気がする
その結果私たちの学年は歌が上手い学年として定評があった(おまけによいこちゃん学年だった)
4年間、誰も脱落せずに卒業式の日まで私たちは朝練に通った
歌い続けた4年間だった
卒業後、中学へ入学したことで6年ともにした仲間とバラバラになった
合唱団、これにて解体である
さて、
ひとり中学受験をしたわたしは
みんなと学校が離れた
そこで選んだのもやっぱり歌だった
そのまま3年間の青春をすべて歌に捧げたのは言うまでもない
ちなみに、一年次の担任が音楽の先生だった
音楽とは切っても切れない縁だったんだろう
4年間続いた朝練はたった一ヶ月ほどの休暇期間を経て復活したのである。
計7年もの間歌うためだけに起きて、
歌うために学校に通っていたのである
びっくりである。
けれど大人数で歌うというのはこれが最後だった
その後高校では一緒のパートで切磋琢磨した友人ふたりが違う高校になってしまったこともあり、その2人以外とソプラノを組むことが想像つかなかったので合唱は辞めてしまった
たま〜に合唱部の顧問に呼ばれて助っ人していた
高校、大人しく合唱やっときゃよかったなと
プチ後悔している
大学はアカペラやろ!と思ってたんだけど
自分のキャンパスにええ感じのがなくて断念
社会人サークルに入ろうかな?と思ってたら
コロナでまた断念
それでもわたし24歳は今でも毎日歌っている
なんなら会話も歌でする(何人かのお友達、ごめん)
早く合唱やアカペラが気持ちよくできる
ご時世がくることを祈っている
余談、
ちなみに小学校の担任と最後に会ったのは成人式の時。先生はなんと全く老けておらず!!あのときのまま可愛らしい感じで旦那さんとお子さんがいらっしゃっていた(嬉しい)
それ以外で先生と再会したのは高校の時電車でたまたま向かいに座ってた時かしら。
さて
来世はミュージカル女優になれますように
この記事が参加している募集
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?