うまく生きることができなくても、いいんじゃないかな
自分の人生、全然進んでいないんじゃないのか。
時々、そう思ってしまう。決まって仕事終わり、くたくたになった夜だ。考えることがなくなった、夜だ。
これがあふれ出てしまうと良くないことがわかっているから、あわててその気持ちに蓋をしようとするのだけど、疲れがたまっているとうまく蓋ができない。
そんな時に少しでも自分をごまかしたり、なだめたりするために入るのが、コンビニだ。
わたしは夜のコンビニが好きだ。コンビニはいつも同じ定位置にあって、夜でも明るく、あまり干渉しない程度に迎えてくれる。
店内は大体同じような商品が並んでいて、しかし毎日同じではなく、新商品が出たり、微妙に日々変わっている。昨日なかった商品が今日はあったり、今日なかった商品が昨日はあったり。縦のものを横にした程度の変化かもしれないけれど、0.1mmでも自分は進んでいるのではないか、と錯覚させてくれる。
商品を選んでいると、自分と同じようなオツカレな人もまあまあいる。この間は知り合いがいた。「あ、お疲れ様です。しんどいですねえ、一緒一緒」なんて声はかけないが、その空間にホッとしてしまう。妙に落ち着くのだ。
なので、本屋さんで『コンビニ人間』を手にとったのは、割と自然なことだった。
「白羽がやってきて…」という背表紙のあらすじのつづきもとても気になるもので、わたしは恥ずかしいほどの甘ずっぱい恋愛小説を勝手に想像していた。
ところがどっこい、ぎょっとした。
主人公恵子にぎょっとし、その相手役と勝手に想像していた白羽にぎょっとし、これはなんだ…!、あぁでもこれが小説というものだ、とページを読み進めていった。
物語が終盤を迎えた頃、わたしは友人と会うためにバスに乗っていた。隣にはサラリーマンが座った。この調子だと、多分このバスの中で読み終える。
「ゔ」
最後の最後、うなり声にもならない声を出してしまった。隣のサラリーマンに声が聞こえたかどうかはわからないが、マスク越しだし聞こえていないだろう。
別にぎょっとしすぎて、気分がわるくなったわけではない。
…感動した。
家で読み終えていたら、「はああああ」なんて一人で一息ついて、背表紙を撫でているだろう。
まさかこんなふうに思えるなんて思わなかったけれど、この小説に、とても勇気をもらえた。
「人生進んでいる」とか、「進んでいない」とかでひとりで悶々と考えて落ち込んでいたけれど、『コンビニ人間』を読んで、そんなことどうでもいいのではないか、と思えた。
※以下ネタバレあり※
☆
わたしは「正しく」「うまく」人生を進めることに、いつの間にかものすごくこだわっていたのではないだろうか。『コンビニ人間』を読み終えたとき、気づいてしまった。
人生の正しい進み方ってあるのだろうか。
大体うまく生きるって、何。
それは、誰と比べて、だろう。
そもそも、人生って進むものなのだろうか。
と考えるうち、若かりし頃、保険に加入するときに、ある表を渡されたことを思い出した。
それは「人生のライフプランシミュレーション」というような題名で、「30歳、結婚」「33歳、マイホーム購入」「35歳、2人目出産」とか、かわいいイラスト入りの年表みたいなものだった。
多分だけど、政府の公表している数字とか、そういうのから作られた「一般的」な人生の年表だった。
この表で重要なのはそこじゃなくて、「この先、お金がどれぐらいかかるのか」ということだったのだが、このときのわたしは、「この表の人生から自分は全然外れている…!」と焦ってしまった。
いわゆる自分が「一般的でない存在」に、悲しくなり、「正しい人生を進んでいない」自分に疎外感をおぼえてしまった。
そう、わたしは「一般的」といつも比べていたのだ。基準は「わたし」ではなく、「一般的」や「標準」だった。
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恵子は、あるバーベキューの集まりで不気味そうな目で見られたり、「結婚か就職かどちらかしたほうがいいよ」と初対面の人から言われる。
またある時は2週間で14回、「何で結婚しないの?」と言われ、12回「何でアルバイトなの?」と言われる。
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なぜ自分が「一般的」とずっと比べていたのだろう、と考えたとき、答えは多分、これだと思った。
異物になるのを恐れていた。だからうまくやらなければいけないと思っていたし、正しくなければならないと思っていた。
「異物」は見えない何かに排除されるから。
だから、「一般的」と比べて自分はそれなり進んでいるのか、進んでいないのかを確かめたかったのだと思う。
そういうことを感じているのは決してわたしだけではないだろう。なんとなく他の人と足並みが揃っていてはホッとし、そうじゃなければ焦る。
そのなかで「わたし異物です」と無理せず、本当に胸張って堂々と生きている人は、世の中に一体どれぐらいいるのだろうか。
☆
途中、恵子は恵子なりに、「治ろう」と「変わろう」とする。それはどちらかというと、自分の生きづらさからくるものではなく、自分の行動により、周りの人をまた悲しませてしまうと思っているからだ。
好きなシーンが2つある。
ひとつは、トゥアンくんとからあげ棒を売るシーンだ。恵子はセールのから揚げ棒を作りながら、こんなことを言う。
もうひとつは杖をついた常連の女性客に、商品をとってあげるシーン。
この気持ちさえ忘れなければ、変わらなくても、進まなくても、周りにとやかく言われる必要はないんじゃないだろうか。そして言われたとしても、気にする必要は多分ない。むしろこれが大事なんじゃないだろうか、と思った。
彼女を見ていると、人生は進む、進まないで一喜一憂するものではなく、比べるものでもなく、ただ自分だけの道がそこにあって、その中で自分ができることを、やりたいことをやっていけばいいんだな、と思えた。だから最後の彼女がとてもかっこよく見えたのだと思う。
まさに堂々と胸を張って生きていくことを覚悟したような、そんなシーンだった。
集団ごとに、異物の定義も価値観も、全てガラリと変わる。それにいちいち対応していては、身がもたない。反対に、自分にとって「変えたくない」ところは、どこだろう。「大切にしたいもの」は、なんだろう。変えてはいけないところだって、必ずあると思う。
自分に嘘をついて苦しくなるぐらいなら、何もうまく生きれないからといって、悩む必要も、焦る必要もないのかもしれない。
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