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ああ、大仏さま(中)〜大仏殿へ〜



そのまままっすぐ進んで、途中でチケットを買う。せっかくなので、東大寺ミュージアムと拝観がセットになったチケットを買った。
ミュージアムには帰りに寄ることにした。

セットで1000円だった


さあ大仏殿へ。

人がどんどん吸い込まれていく。「入口付近で止まらないでください」と言われたが、渋滞していてなかなか前へ進めない。皆、スマートフォンや一眼レフカメラを胸のところまであげている。

やっと中に入れた。見上げる。

ああ、大仏さま…!
…そうだ、まず参拝。

圧倒されて、声にもならないような息が喉から漏れでる。こういうとき、なんていったらいいのか当てはまる言葉が見つからない。自分の語彙力のなさを恨むが、もはや言葉なんて必要ないのかもしれない。大きい。その手も、耳も、鼻も、口も、目も、もう全部、全部大きい。今はただ、その大きさを感じていたい。

右手:施無畏印(せむいいん)
左手:与願印(よがんいん)

「畏れる必要はない、まあお待ちなされ」と制するように前に出された大きな右手に、「ひとりでも多くの人を救いましょうぞ」と天に向かってひらかれた大きな左手は、見るだけで「ひとりじゃない」「見守ってくださっている」という、安心感がある。


やすらぎ。


ここのところ、よく自分の中で「何か」を探していた。探していたけれど、それがわからなくて、もやもやしていたりイライラしたりしていた。うまく説明できない自分がいやだった。けれど今、ようやくわかったような気がする。わたしが欲しかったのは、いつも求めていたものは、これだったのだ。電車の中でみた、お父さんに抱っこされながらすやすや眠ってしまった女の子のような安心感。ぬくもり。説明とか言葉を超えたもの。





大仏さまの本名は、盧舎那仏像。干ばつや大地震、流行病で苦しむ世の中に、聖武天皇が建立した。平安時代、戦国時代に兵火に合い、江戸時代に再建されている。


そんな苦難を乗り越えた大きな大仏さまを見上げながら、なんて自分は小さいんだろう、と思った。


所詮人間の体なんて、大仏さまの鼻の穴を通り抜けられるほどの大きさで、手のひらに包まれるほどの大きさで、ちっぽけな存在だ。


そのちっぽけな体で必死に悩んで、必死に食べて、必死に生活して、なんて無力なんだろう。そして未だそのちっぽけな体で、自分が一番だと勘違いし、命を奪い、奪われ、血を流し、もう本当何をやってんだろう、と腹ただしさと悲しさが湧き起こる。


大仏さまの前では皆同じなのに。変わらない人間同士なのに。


けれど、この大仏さまを造ったのも、そのちっぽけな人間だ。


全てのものが安らかに暮らせるように。
平和で暮らせますように。
そんな大きな願いが込められて、造られた。


ひとりでできることなんて、限られている。
良くも悪くも、ひとりで大きなことなんてできない。
わたしはそのことをよく忘れそうになる。
いつもひとりよがりで、傷つくのをこわがって、勇気もない。
傲慢になるなよ。
そう言われている気がした。

帰り際に撮った大仏さま


たくさんの人が御朱印帳記帳のところに並んでいる前を通り過ぎて、出口付近でもう一度大仏さまに向かって手をあわせ、さようなら、ありがとう、また来ます、と心の中で呟いた。帰り際に見た大仏さまは、とてもやさしい表情をしていた。少し伏し目がちで、ありとあらゆるものを慈しむような、寄り添ってくれるようなそんな表情。ここで手を合わせることを、また許してくれるだろうか。

大仏さまの目からは、どのようにこの世界が見えているのだろう。


真正面からの大仏さまも堂々としていてかっこいい。けれど、わたしは帰り際に撮ったこのアングルが1番のお気に入りだ。


ああ、来てよかった、と思った。


つづく

ありがとうございます。文章書きつづけます。