書くことで、ゆるやかに自分をこわしていく
書くことが好きだ。割と得意なほうだし、話すのが苦手な分、自分の言いたいことを伝える唯一の手段だ。…ゆるぎなくそう思ってきたけれど、もしかしたらそうじゃないかもしれない。
ここのところ紙の日記を書いてもnoteを書いても、なんだか言いたいことと書いていることが、うまくかみ合わないことが多くなり、少し悩んでいる。
わたしは本当はそこまで書くことが好きではなく、文章を書くのが得意ではないかもしれない。
…むしろ苦手なのかも。
このことに気づいたとき、少なからずショックだった。
それは、今まで積み上げてきた「これがわたし」というものを否定しなければならず、自分にできることが、本当になにひとつなくなってしまうような気がしたからだ。とても悲しかった。
そもそも書くという行為は、とてもとても、恥ずかしい。しかも自分の紙の日記にとどめとけばいいものを、noteというツールを使い、わざわざ皆の前で文章を晒す。はっきり言って、こんな恥ずかしいことはない。こんなことを書かなくてもいいのに、ということまで時々書いて、あとであちゃーと思うときもしょっちゅうある。
でも、見てほしい。
聞いてほしい。
読んでほしい。
恥ずかしい、そんな奥ゆかしさを装いながら、真逆の欲が、また心の中で同時に湧いている。
なんかわからんけど、もうこのどうしようもない気持ちを聞いて、誰かあああああー!!
その言葉にならない部分まで、伝えたいときがある。そういう時、全然言葉になりきれず、感情だけが先走って零れ落ちることがもどかしく、なんか悔しい。悔しいから、なんとか言葉にしようとするけれど、自分の力不足でやっぱりかたちにならなくて、また悔しい。こういう時、ああもうなんで、なんでよ、と思う。そして苦しい。時間もかかる。
誰にも頼まれていないのに、苦しいのに、なぜここまでして書こうとするのだろうか。
それはわたしにとって書くことが、「ゆるやかな破壊」、だからだと思う。それは、茹で卵をつくって食べるまでの工程に少し似ている。自分という卵の殻に、コツコツとヒビをいれ、沸騰した鍋の中に入れ、決められた時間茹であがるのを待ち、流水にあげ、殻をむぎ、つるん、と茹であがった卵を食べる。
要するに、変わりたい。
変わりたいのだと思う。
恥ずかしいけど書くことによって、自分を晒すことによって、新しい物事の見方を常にさがしている。そうじゃないと、何も新しいものが生まれてこないし、変わらないような気がするのだ。殻を破れないような気がするのだ。
本当はもっと、器用にできる方法があるのかもしれないけれど、今のところ、わたしはこの方法しかわからない。だから苦しくても、時間がかかっても、書くのだと思う。その向こう側が、見たいがために。茹で上がった卵が食べたいがために。
好きとか嫌いとかそういう次元ではなく、言葉でもうまく伝えられない。
けれど、ただ変わりたい。
そんな理由からだけど、これからもゆっくり、書き続けていこうと思う。
ありがとうございます。文章書きつづけます。