あんぱんは、欠けて、満ちて
久しぶりにあんぱんを食べた。
それも横綱級のあんぱんだ。
まず仕事が終わって、職場近くの美味しくて安いパン屋さんに行こうと思っていたのだけど、風がとても強く吹いていたのと、空に広がった灰色の雲が今にも雨を降らせそうだったので、それをやめて、地元のパン屋さんに行くことにした。
地元のパン屋さんは、最寄駅を降りたらすぐ何軒かあって、たまたまふらりと入ったそのパン屋さんは、あんぱんがとても有名なお店で、けれど10時と15時しか焼いていなくて、しかも30食限定で、すぐ売り切れる。
「おひとついかがですか」
たまたまそう店員さんに声をかけられたとき、ちょうど15時で焼き上がったばかりで、店内にはお上品そうなマダムとわたしだけだった。
マダムはささっと、慣れた手つきで3つもあんぱんをトレーにのせ、他のパンをまた優雅そうに選んでいたが、わたしはあんぱんをひとつだけとって、レジに並んだ。
トレーにのせられた通常の2倍サイズのあんぱんは、きれいなまんまるで、ずっしり重い。まだほくほくあたたかくて、小麦の香りが、あぁ…もう説明するまでもないでしょう。
食べずともわかる、この信頼に思わず笑みがこぼれてしまう。
☆
あんぱんが入った袋を提げ、家に帰りながら考えた。
もし、あの時職場近くのパン屋さんに行っていたら。
もし、あの時、あのパン屋さんに入っていなかったら。
もし、あの時、15時じゃなかったら。
今、こうやって、あたたかいあんぱんはこの袋のなかに入っていないだろう。
たくさんの偶然が、少しずつ重なって、このあんぱんは今、わたしの手の中におさまっている。
そう思った瞬間、なんだかすごいことのように思えた。
日々は自分の気づかないうちに、奇跡の連続を重ねていて、今を生み出しているのかもしれない。そして自分が思っている以上に、たくさんの、たくさんの小さな選択を毎日しているのだ。
時々「何のために頑張っているのかな」と思うし、「こんなことをして何の意味があるのだろう」とか、「自分のやっていることって、全部無駄じゃないか」と思うときがある。
やっていることの成果が目に見えないから、イライラしたり、失敗したり、めげたりすることも多々あるけれど、どこか裏側で必ずそれは積み重ねられている、全部意味があることだと思うと、ちょびっとだけ気持ちが落ち着くような気がした。
役に立つとか、立たないとかはわからないけれど、「なにか」は必ず積み重ねられているのだ。
☆
まだあたたかく、やわらかなあんぱんを、真ん中からゆっくり手で割った。パンの皮は薄く、つぶあんが惜しげもなくぎっしり詰まっている。
なんという贅沢な、豊満ボディ。
口に入れた瞬間、あんこの味が、口全体に広がった。こんなにつぶあんが入っているのに、全然しつこくなくて、むしろやさしい甘さにじーんときてしまう。
これを130円で手に入れられるなんて、わたしはなんて幸せものだろう、作っている人は偉大だなあ、とうれしくなった。
あんぱんといえば牛乳でしょう。
牛乳にきなこを入れてかき混ぜ、あんぱんのお供にする。
美味しいなあ、美味しいなあ、と思いながら食べたあんぱんは、みるみるうちに小さくなって、最後のひとかけらになった。
ああ、このひとくちがなんだか惜しい。
けれど、「まあまた食べられるよね」「そのためにもまた頑張るか」という前向きな気持ちで、ぱくりと口にほうりこむ。
あんなにまるまるとでかかったあんぱんは、あっという間に皿の上から姿を消して、わたしのお腹のなかにすっぽりおさまった。
幸せってこういうことよね、満足満足、とひとりでニンマリした。
いい気分だった。
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Q.最近幸せを感じた瞬間はありますか?
よろしければ、コメント欄にどうぞ。
ありがとうございます。文章書きつづけます。