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お母さんじゃないから、「お母さんになること」について考える

職場の休憩室のテーブルに、ヘルメットが置かれている。子ども用の自転車のヘルメットだ。ごろっとまるっとしたフォルムのそれは、ピンク色で、とてもかわいらしい。鍵付きのロッカーとテーブルしか置いていない、殺風景な休憩室に、このヘルメットは場違いだ。けれど、なんだかちょっとくすっ、と場をなごませてくれる、そんな力を持っている。

これは2月から産休明けで復帰した人のものだろう。時短で4時までの勤務。今は3時だから、そのあとチャリンコを必死に漕いで、お迎えに行くんかな、まだつたない、ことばにもならないことばで、「きょう保育園で〇〇があってん、ママ」なんて話しかけられてるんかな、帰ったらバタバタお風呂入れたりするんかな、とか勝手にあれこれ想像したりする。

当たり前だけど、あぁ、この人は家では「お母さん」なんやなあと思う。職場では「〇〇さん」として仕事をして、家に帰ればその子の「お母さん」になるんやなあと思う。


「お母さん」、今のところこの職業は、自分がつとめるにはとても難しく、縁遠いところにあると思っている。


 ☆

そんなわたしが『朝が来る』という小説を読んだ。

子どもを授かれなかった母親と、子どもを育てることができなかった母親。一本の電話が佐都子の家にかかってくるところから、物語は進んでいく。

わたしは「お母さん」を経験したことがないので、何もわからない。けれど、感情がこみあげてきて、涙が出る場面が何度もあった。

ここからは、わたしが『朝が来る』を読んで、感じたこと、考えたことを書いていきたいと思う。

2人の母親と、つながり

いいタイミングで、自然に。

そのタイミングというのは、人によって違うけれど、遅すぎてもよくなくて、早すぎてもよくなくて。

自然にっていうけれど、一体なんなんだろう、と思った。自然に恋愛をして、自然に結婚して、自然に妊娠、出産して、自然に子どもを育てて、自然に子どもが大きくなる。その自然は、時々メディアによって、周りの価値観によって、つくられていく。よく考えれば、それはとても不自然なようにも思う。

そう考えると、いいタイミングで子どもを産む、というのは、本当にすごいことだと思うし、奇跡のようなことなんだ、ということを、この小説を読んで改めて思った。

佐都子は不妊治療の末授からず、子どもを産むことができなかった。
ひかりは14歳での妊娠で、子どもを育てることができなかった。

2人ともタイミングの関係で、出産や子育てを経験することができなかった母親だ。しかし、朝斗が2人を見えない糸でつないでいく。朝斗がいなければ、年齢も立場も全然違う2人は、母として出会えなかった。

2人のつながりのシーンは何度も現れる。

自分たちが今日まで抱えてきた事情のすべてを、この子とならばわかち合えるような気がする。
まったく違う境遇のこの子に、そんな風に思うなんて、本当に不思議なことだった。(P142)
もっとたくさん言いたいことがあるのに、これしか言葉が出て来ない。
本当は聞いてほしかった。この子と自分が、どうやってここまで来たか。(P238)


特に朝斗が産まれる前と後のこのシーンが印象に残った。

入院が近づいた、ある日の健診の帰り、海の上に浮かんだ太陽と、それを隠す雲とが、びっくりするほど、強い光でくっきりと光と影に分かれていた。
「もうすぐだよ。頑張ろう」とおなかに手を置き、声をかけて、寮までの道を歩いていたひかりは、空を見上げて、立ちすくんだ。
美しかった。
まるで、ポスターか何かのような完璧な光景だった。
動く雲の向こうに、輝きを放つ太陽があることを、そこに立つだけで全身で感じる。
ただ照らされるだけではなく、遮るものがあるからこそ、その存在をこんなに感じられるなんて、すごいことだ。(P231)

朝が来た、と。
終わりがない、長く暗い夜の底を歩いているような、光りのないトンネルを抜けて。
永遠に明けないと思っていた夜が、今、明けた。
この子はうちに、朝を運んできた。(P236)


空を通じて、朝斗のへその緒が、2人の母親をつなげたこの描写に泣いた。

お母さんと子どもをつなぐ人

しかしこれは、あくまでも小説。
美談で終わらせようと思えば終わるのかもしれないが、この小説は違っている。お母さんになること。その現実を説くのが、ベビーバトン代表の浅見さんだ。
浅見さんもまた、「お母さん」だ。お母さんたちの、お母さんだ。
だからこそ、その覚悟ができているかどうかを、厳しい言葉で投げかける。
こういう厳しい言葉を言ってくれる人が少なくなってきていると思うが、とても大切で必要な存在だと思う。

「特別養子縁組は、親のために行うものではありません。子どもがほしい親が子どもを探すためのものではなく、子どもが親を探すためのものです。」P104
「育児は、いいことばかりではありません。(中略)しかし、育児はお金も時間も、親からすべてを奪います。その上、誰が評価してくれるというものでもない」P121
「長い人生の楽しみとしてもちろん育児を選ばれる方もいると思います。しかし、育児でなくても人生を楽しめる方法はいくらでもある」(P121)
「よく説明会にいらっしゃるご夫婦に聞くと、こう仰る方がいるんですね。『”普通の子”がほしい』と。ーですが、よく考えてください。”普通の子”は、”普通”の家にいるんです。(中略)養親になる際には、実親さんの妊娠経過や家庭環境にどんな事情があっても問わない、という覚悟をしていただくよう、お願いしています」(P116)


特にこの「”普通の子は”普通”の家にいるんです」っていうところに、ドキッとした。
そして普通の子、普通の家ってどういうことだろう、と思った。


多分家族は、何も言わなくてもわかりあえる、という小さなコミュニティのひとつだ。本来は、重要なことこそ言葉にしなくては伝わらないのに、こういうのは言葉にしない。何も言わなくても通じ合えると思っているのが、「家族」というもの。それが、「暗黙の了解」みたいに横たわっているから。

そのなかの、自分たちの考える範囲を、超えない子。

だからこそ、他人には全然理解できない価値観が、そのコミュニティの数だけある。

その普通の子、普通の家ってなんなんだ、と思いながら、2人の母親の、母親のこと(朝斗のおばあちゃん)について、今度は考えた。

2人の母親の、母親

佐都子の母親は、佐都子に言う。

「三十四歳までだったんだって」
「女性が自然に妊娠できる年齢。三十四歳までだったんだってよ」(P72)


ひかりの母親は、ひかりに言う。


「本当は、おなかの子どもがいなくなればどれだけいいか」(P210)

この言葉から想像するに、佐都子の母親は佐都子を34歳までに多分産んだのだろう。
そして、ひかりの母親は教師だ。
特に「正しくあらねばならない」という世界のなかで、まさか自分の娘が14歳で妊娠するなんて思っていない。

2人の母親の母親は、それぞれこういったことを言うのだけど、もし2人の娘が2人の価値観に沿って育っていたら、こんなことを言うことはなかっただろう。

特にひかりの母親に関してはそうだと思う。
ひかりが14歳という年齢ではなく、それこそ適齢期に結婚して、お腹に子どもがいたら、こんな言い方をすることはなかったし、子どもが産まれることを手放しで喜んだはずだ。

ひかりは、そんな母親にずっと反発する。

あなたたちから産まれたからって、私まで、あなたたちみたいに真面目で、狭い世界しか知らない人だと無条件に信じられてるのは、心外だった。(P175)
両親が思う、立派そうだけど、おもしろみのない世界で生きるのなんてごめんだった。親たちの知らない、楽しくて明るい場所で起こることの仲間入りを、自分もずっとしたかった。(P175)

ただもし、自分が、ひかりの母親の立場だったら。

やっぱり14歳での妊娠、出産は反対するだろう。
そして、そのあとうまくひかりと付き合えるかどうか。
この母親と同じように、「失敗しないひかり」と見てしまうかもしれないし、変わっていく彼女を、目を逸らさずに大きな心で受け止められるかと言われれば、正直、YESとすぐに答えられる自信はない。

お母さんになったことがないし、身近に子どももいないから、子育ての大変さとか、子どものことはわたしには正直よくわからない。
けれど、何もわからない今の立場から、この小説を読んで知ったことも多い。


男性側の不妊治療のこと。
特別養子縁組のこと。『真実告知』のこと。
ベビーバトンのような支援団体のこと。


もしかしたら、「いいタイミングで、自然に」というのが時々不自然に思えるのは、その流れの中にある、それぞれの意思というものが、省かれているからかもしれない。
本当はこうしたい、ああしたい、という意思があるはずなのに、それが流されているように思えるからかもしれない。

誰かが意思をもつということは、大概誰かの思い通りにならないことが多い。けれど、またそこから思わぬつながりが生まれ、人との新しい関係を、紡いでいくのだと思う。

今回、今の立場からこの本を読んで、様々なかたちで「お母さん」という人が存在しているのだな、と思った。また、それがいいんだと思った。そして、自分のこれからの生き方についても考える本となった。



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