いにしえの湖のカタチは?:河川の変な流れ探索part7(岩手県南東部中山間地域)【流域を考える旅vol.1】
長いことお送りしてきた岩手県一関市東部地域の川のお話。
いよいよ今回でクライマックスとなります!
古大東湖(想定、仮称)の姿
前回お話しした地形的特徴(V字谷・台地・ガリ―浸食)を総合して、だいたい標高90~150mの平坦地・台地・ガリ―浸食が見られる範囲が湖だったのでは?と想定しました。
スーパー地形(カシミール3D)より抜粋した図をもとに筆者作成。
なおカシミール3Dは元データとして国土地理院の「電子国土」を使っているそうです(出典:国土地理院ウェブサイト)
※トップ画像や以下の地形・地図画像すべて引用もとは同じです。
ちなみに台地状の地形は標高200mくらいの高さまで見られます。
ですのでもしかしたら、そのくらいの高さの範囲まで湖だった可能性もあります。
しかし確実にガリ―浸食が見られる(湖の堆積土砂と推定)範囲など考慮し、ここでは標高150mあたりで区切りました。
一般的に考えて、浸食は過去から現在にかけて進んでいき、谷は浸食で削られ、低くなる一方です。
例え常に湖沼ではなかったとしても、昔のV字谷は今ほど深く広くはなかったのは間違いありません。
普段は水が流れていたとしても、流せる水の量は少なく、増水ですぐに氾濫したでしょう。
そして土砂崩れなどで堰き止められれば、河川水が氾濫して一時的に湖沼や湿地になり、現在のような平坦地が形成されたと考えられます。
砂鉄川と猿沢川の争い
ちなみに猿沢川と砂鉄川のそれぞれにV字谷がありますよね。
2つはほぼ同時進行で浸食が進んでいたでしょうが、完全開通したのは猿沢川の方が一歩早かっただろうと考えられます。
もしも砂鉄川の開通の方が早かったとすると、水量の多い砂鉄川はあっという間に浸食が進んで低くなるので、猿沢川はまっすぐ南下することになったでしょう。
南のV字谷が先に開通すれば、猿沢川このように流れて砂鉄川に合流したと考えられます。
しかし猿沢川はいち早く下流に合流したため、下流の平坦地が取り残されました。
湖は一時的にこの様な範囲になり、その後、砂鉄川が開通して曽慶川は浸食が進んで低くなり、かつての湖に溜まった土砂は削られ、周囲にガリ―浸食ができたと思われます。
千厩川との争い
以前お見せした、つながっているように見えたこの谷。
北上川に一番近い千厩川は、いち早く北上川に合流して浸食が進みます。
そのため、かつての千厩川の水系は曽慶川に迫っていた可能性が高いです。
(※現在、大平川本流にまで千厩川支流が迫っているのと同様)
しかし砂鉄川の北上川への合流後、水量の多い砂鉄川の浸食は加速し、曽慶川は地域で一番低い川になり、逆に千厩川の水系を浸食して取り込んだと考えられます。
そのせめぎ合いの跡が、あの谷地形だったのではないでしょうか?
やはり台地の長い歴史を見てみれば、川の流れも決して一定ではないと分かります。
今回推定した歴史は、現地に残る河川堆積物などを調査すれば、その真偽は明らかになるでしょう。
しかし地形・地質の既存情報だけでもここまで検討できるのは非常に楽しいことです。
改めてスーパー地形に感謝です!
お読みいただき、ありがとうございました。
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