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破局噴火と栄枯盛衰【都道府県シリーズ第2周:宮崎県 宮崎市編no.1-4】

宮崎県宮崎市の南西部は、広い台地が発達した特徴的な地形を示しています。かつて独立した1つの町であった田野地域には、多くの人々が住み、稲作や畑作を営んでいます。
洪水に遭いにくく広く平坦な台地はとても住みやすく、古くから人々が暮らしていたようです。
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旧石器時代人、縄文人、そして現代人と人々が住み続けるこの台地は、どのようにして形成されたのでしょうか?


台地の成因は?

田野地域の台地はどのようにして出来たのでしょうか?
地質図を見てみましょう。

田野地域周辺の地質図:スーパー地形アプリでシームレス地質図V2を表示

多くの地質が複雑に分布していますが、大局的に見て、第四紀以降の地質それ以前の地質に分けて考えましょう。

田野地域周辺の地質図②:スーパー地形画像に筆者一部加筆

赤点線で囲った範囲が、概ね第四紀以降(約258万年前以降)清武川の侵食によって形成された谷地形です。
この谷地形の内部に台地が発達しています。

一方、赤点線の外側の濃い緑色や黄色等の地域は、中生代後期白亜紀~新生代新第三期鮮新世(約1億~258万年前)の地質です。

つまり第四紀の時代が始まった当初は、これら古い地質が地面であり、その上を清武川が流れ、それら古い地質で出来た地面を削って谷をつくりつつ、新しい堆積物が谷の内部に溜まって台地を形成しました。

田野駅周辺の地質図:スーパー地形アプリでシームレス地質図V2を表示

拡大して田野駅(上図中央付近)周辺を表示しました。
各地質は以下の通り。

水色:約1万年前~現在の河川堆積物
緑色:約13万~1万年前の段丘堆積物(古清武川の堆積物)
ピンク色:約3万年前の火砕流堆積物

なお段丘堆積物(緑色)の台地より火砕流堆積物の台地の方が一段高くなっていますよね。
このことから、河川の流れで河岸段丘が形成される中、ある時に火山噴火によって火砕流が流れてきて、河岸段丘を覆ったと考えられます。
現在段丘堆積物が地表に出ている地域は、侵食によって上に載っていた火砕流堆積物が削られたことを示しています。

この火砕流堆積物は入戸(いと)火砕流堆積物と呼ばれ、姶良カルデラから噴出したものです。

約3万年前の「姶良大噴火」とは?

入戸火砕流堆積物とは、約3万年前に姶良カルデラで発生した「姶良大噴火」と呼ばれる火山噴火で形成された地層です。
まずはその分布範囲を見てみましょう。

九州南部の地質図:スーパー地形画像に筆者一部加筆

九州南部の地質図を見てみましょう。
姶良カルデラは鹿児島湾北部の桜島火山を含む直径約20kmの窪地です(上図赤丸)。
ここから概ね放射状に火砕流が流れ、広範囲にわたって埋め尽くされました。ピンク色に着色された範囲が入戸火砕流堆積物の範囲で、黄丸が田野地域です。

ものすごい広範囲に分布していますよね。
図から読み取ると、少なくとも半径50km圏内の土地が火砕流に飲み込まれたと推定できます。
火砕流は約100km/hの速度に達し、温度は数100℃と高温です。
火砕流到達域に生息する全ての動植物は噴火後約30分以内に全滅したと考えられます。

また火砕流と同時に火山灰も広範囲に降り注ぎます。
この火山灰は姶良Tn火山灰と呼ばれ、北は青森県にまで達しています。

すぐ近くの田野地域では当然、厚く堆積しており、1~1.5m(産業技術総合研究所:大規模噴火データベースより)も降り積もりました。

このように広域にとんでもない規模の被害をもたらすような火山噴火を特別に「破局噴火」と呼びます。
日本列島では、九州地方やその他地域でいくつもの破局噴火の痕跡が確認されています。

姶良Tn火山灰等層厚線図 給源付近拡大図:宝田ほか2022より

西日本を中心とする姶良Tn火山灰の層厚分布図です。
九州から中国・四国・近畿地方まで32cm以上の層厚があります。
30cmともなれば、草は埋まってしまいます。

また地層の花粉分析結果から、姶良大噴火の季節は春だったと考えられています(辻・小杉1991)。
そうなると例えば、ワラビやコゴミ、フキノトウ、フキ等の山菜類はその年は全く手に入らないだけではなく、その後回復するまで相当の年月がかかりそうです。
それら植物を餌にする小動物や昆虫類もいなくなれば、それらを餌にする中~大型哺乳類も飢えてしまいます。

人類への影響は?

なお前回紹介した本野原遺跡(もとのばるいせき)では旧石器時代の石器が見つかっています。
しかしそれらの石器は旧石器時代よりも新しい地層から発見されたことから、上流から流れて来たものか、もしくは後にこの地に住んだ人類が掘り返したものと考えられます。
そのため田野地域に住んでいた旧石器時代人が姶良大噴火後にどうなったか?は直接は分かりません。

しかし本野原遺跡で見つかった石器の種類に着目すると、日本の旧石器時代前期(約35,000~29,000年前)のものと、後期(約29,000~15,000年前)のものが見られるため、噴火の前後に人類が住んでいたと考えられます。

もちろん火砕流に飲み込まれたら生き残ることは不可能ですし、しばらくは住めないので、噴火後数100年は無人の時代が続いたでしょう。
しかし少なくとも縄文時代には、間違いなく人が定住した痕跡が見つかっています。

次回へ続きます。
お読みいただき、ありがとうございました。

参考・引用文献

今井功・寺岡易司・小野晃司・松井和典・奥村公男(1980)50万分の1地質図幅、地質調査所.

井村隆介(2016)南九州の巨大噴火と環境変化.日本生態学会誌、66、p.707-714.

宝田晋治・西原 歩・星住英夫・山崎 雅・金田泰明・下司信夫(2022) 姶良カルデラ入戸火砕流堆積物分布図.大規模火砕流分布図, no. 1, 産総研地質調査総合 センター.

辻誠一郎・小杉正人(1991)姶良Tn火山灰(AT)噴火が生態系に及ぼした影響. 第四紀研究、30(5)、p.419-426.

宮崎県宮崎郡田野町教育委員会(2004)本野原遺跡一 県営農地保全整備事業元野地区に伴う埋蔵文化財発掘調査報告書.田野町埋蔵文化財調査報告書 第48集.

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