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「いろんな人がいる」と思えるかどうか

このあいだから、「岡田斗司夫氏が提唱している性格の4タイプ」について何度も紹介している。すでにこの記事

やこの記事

で触れたので今日が3回目だ。

ぼくが岡田氏のタイプ論のこだわるのには、けっこう深い理由があるので、今日はそこのところをガッツリと論じてみたい。

タイプ論は古今東西で人気

性格をいくつかのタイプに分ける理論はむかしからたくさんある。心理学にもあるし、占いにもある。CGユングの『タイプ論』は有名だが、西洋占星術の12星座だって、そもそも人間のタイプを12分類したものだ。

他にも、エニアグラム診断の9タイプ分類とか、MBTI診断の16タイプ分類などなど、ググったらいくらでも出てくるし、西洋のタロットにしても、東洋の易にしても、未来予知の道具であると同時に性格診断の道具でもある。

古今の東西を問わず、性格診断の手法がこれだけたくさん開発されているということは、それだけ需要があるということだ。そして、なぜそれほどに需要があるのかと考えてみれば、それはズバリ

みんな自分のことを知りたい

からである。人はみな自分がどういう人間なのか知りたい。自分の肉体を鏡に映して眺めたいのと同じくらい、自分の性格の特徴を知りたいとねがう。

孫子も「彼を知りおのれを知れば百戦あやうからず」と言っているように、「おのれを知る」のは勝つための基本である。社会でうまいことやっていくには自分の特徴を知っているほうが有利なのだ。

それはそのとおりなのだとして、しかし、なんのメリットがなくてもとりあえず鏡に自分の姿を映してみたいと思うように、メリットなどなくても、じぶんがどういう性格なのかを知りたい気持ちはだれにでもある。それは

人はみな自分のことが好き

だからだろう。みんな自分が好きで、自分のことをもっと知りたい。これは根源的な欲求ではないだろうか、だからこそ、古今東西を問わず、性格診断の需要は絶えたことがない。

ここまでをまとめると、いつの時代も性格診断は大人気であり、それはみな自分のことが好きだからだということになる。

他人を知るための岡田式タイプ論

以上を踏まえたうえで、岡田式タイプ論のユニークなところは、

自分を知るためでなく、他人を知るために使ってください

と言っていることだ。また岡田氏は

他人のことを分析していれば、自分がどのタイプに属するかも自然にわかってきます

とも言っている。岡田式の場合、まずは他人の分析なのである。この点が、他の多くの性格論とは毛色の異なるところだ。

加えて、このタイプ論は、性格の全体像を分析しようとはしていない。性格というのは複雑怪奇なモノであり、全体像を把握しようと思えばとうてい4分類などではまかないきれないのだが、この診断は性格全体の特徴を分析するためのものではない。

その人が「どういう自己実現を求めている人なのか」いいかえれば、「何を望みにしてい生きているタイプなのか」という部分だけに着目し、それを4つに分けている。

4タイプが何を望みに生きているかをここにざっとまとめておくと

司令型・・勝利を望む人
注目型・・平和を望む人
法則型・・自由を望む人
理想型・・真実を望む人

である。

以上は、あくまでそれぞれのタイプが、最終的な目標地点をどこに置いているかという分類でしかないので、かならずしも性格全体がこの4つに分類されるということではない。

他の角度からとらえれば、まったくことなる分類になることもあるだろう。あくまで、その人の最終目標がどこに設定されているかという点だけで分けたものなのだが、だからこそ使い勝手がイイということでもある。

たとえば、司令型の人だって、ときには自由を望み、ときには平和を望み、真実を求めることもあるのだが、彼の求める平和や自由や真実は、最終的な勝利を手に入れるための手段なのだ。そういう人間理解がこの4タイプ論なのだといえる。

または、理想型の人だって、勝負に勝たねばならないこともあるし、束縛を逃れて自由を手に入れなければならないこともあるし、平和を望むこともある。しかし、その平和も自由もすべては、最終的に真実に到達するために必要なものだから求めているということである。

そういう人間理解なのである。

具体例(藤井 V.S. 羽生)

将棋の世界で具体例を挙げてみよう。

プロ棋士は勝つことが商売なのだから、「勝利を望む人」のようにも見えるが、個々人で勝利に対するウエイトの置き方がやや異なっている。

今、「藤井颯太 v.s. 羽生善治」の王将戦七番勝負が話題になっているけど、この2人の勝負観は、かなり異なっていると思える。

たとえば、藤井さんの場合、こどもじだいには負けるとものずごく泣いていたというのが有名だ。同い年の伊藤五段に小学校時代に対戦して負けたことがあるのだそうだが、

見学に訪れた勝又清和七段(53)はこの対局を鮮明に記憶している。

「高学年の対局を見ていたら、いきなり“うわーん”って声がした。なんだろうと思ったら、準決勝で伊藤くんに負けた藤井くんが、声を上げて泣いていた。負けて泣く子は珍しくないですが、あの大会では藤井くんだけで目立っていました」

藤井くんが泣き止まないので、伊藤くんが決勝戦に移れない。時間も押していたし、スタッフがなだめるのに苦労していました。

藤井聡太竜王 小学3年生で「号泣しながら勝利」のものすごい根性秘話

子ども時代のことを今さらとやかくあげつらっても仕方がないけど、負けた時のくやしがりかたが際立っていたのはまちがいない。

一方の羽生さんはというと、

勝つことにも、将棋を指すことにも意味はない。だから突き詰めちゃいけない

などと言う人だし、また、

大勝負に負けた後でも、解説の棋士から自分の発想になかった手を示されると、彼は嬉々として「えっ、えっ、何ですか、こうですか」と声を発し夢中になっていた。

羽生善治は藤井聡太20歳の将棋をどう見ている?

という様子を見てもわかる通り、勝つこと以上に、独創的なロジックを発見する喜びに夢中な人だ。

岡田式のタイプ論で見れば、藤井さんはなんとしてもとにかく勝利を目指しているように見える一方で、羽生さんは将棋を通じて自分の納得できる真実を探している人に見える。

おなじ勝負の世界に生き、今現在、死力を尽くし打て相手を負かそうとしている最中のお二人ですら、これだけのちがいがあるわけだ。

相手がなんのために戦っているのか

ならば、いま職場で、または家庭で、またはSNSであなたと争っている人が、

いったい、なんのために戦っているのか

は、あなた自身の目指しているモノとはまるで異なっている可能性が大きいのである。そして、相手が望んでいるモノを客観的に分析するために役立つのが、この岡田式タイプ論だ。

たとえば、あなたは平和のために仕方なく戦っているかもしれないが、逆に相手は、勝利のためにあえて和平を提案してくることもあるだろう。

相手と自分では戦う目的は異なる。

このことを冷静に認めることが、もめ事を解決するために不可欠なのだ。

最終的に望むものがちがうなら、同じトロフィーの奪い合いをしなくてもすむかもしれない。あえて争わずにそれぞれの欲しいものを手に入れることができるかもしれない。

平和を望んでいる人には平和を与えて、勝利を望んでいる人には勝利を与え、自由を望んでいる人は自由にし、真実を望んでいる人にはそれを追求させてやれば、もめ事は回避できる。

相手の望むものが、自分と違うことに気づければ、対応の仕方もおのずからことなってくるし、そうすることでもめごとはかなりの程度解消される。

そのために岡田氏は、

自分を知るためでなく、他人を知るために使ってください

といっているのだろうと思う。

勧善懲悪の発想

しかし、人は往々にして、自分が最終的に望んでいるものこそが、すべての人間が望んでいるものに違いないと勝手に思い込み、余計な争いを始めることがよくある。

そうして、相手を理解することなく断罪する。

自分は平和のために戦っている。そして全人類は平和のために戦うべきなのだ。という風に原理主義的に思い込めば、勝利のために戦う人の価値観を受け入れることができない。したがって

自分と異なる価値観で戦っている人=悪

というふうにとらえてしまう。「自分の価値観=全人類の価値観」だと早合点してしまうと、自分に理解できない価値観に従って戦っている相手を勧善懲悪の図式に当てはめて、安易に悪魔化する。

しかし、古今東西、相手を理解しようとすることなく、アタマから悪魔だときめつけてもめ事が解決したことなどないのである。

人が最終的になにを望んでいるかは、人それぞれだということを実感するためにも、この4分類を自分の周りの人たちにあてはめてみるのが有効だと思うし、その延長上にムダな争いを回避する道が開けるはずだ。

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