愛なき列島
この文章は、ぼんやりとしたアイデアの状態で書き出すことが多くて、結論はおおよそ決まっていても、細部はあいまいなままで書き出すことも多い。
なので、むだ話が脱線して結論にたどり着けない場合や、思っていたのとぜんぜんちがう結論にたどり着いてしまうこともよくある。昨日の記事などは典型で、そもそも
ということを書くつもりで、実際に書き始めてみたら
という結論になってしまったなので
と書いた後で困っている。
で・・そういう日もあるのだが、真逆の日もあり、キーボードに向かう前に文章の細部までアタマの中でかっちり組みあがってしまっている日もたまにある。そして今日がその日なのだ。
こういう日は、書くのがめんどくさいの一言に尽きる。すでにできあがっているものをもう1度ポチポチと打たねばならないのだから。「だれか取り出して活字にしてくれよ」とおもいつつ、こうして不要な前置きなどを書いて気を紛らわせているわけだが、もう1つ付け加えるなら、細部まで出来上がっているということは、そのことについてすでに数えきれないほど考えたからであって、いいかえればとても大事なことなのである。
虹は何色あるか
さて、いきなりだが、人間は言葉というものを使ってものごとを考える。そして、言葉は国や地域によってちがう。そうすると、言葉の違いは考え方の違いにもなるし、ちがう言語を使っている人では世界の見え方も変わるということが起こる。
たとえば、エスキモーには「雪」をあらわす言葉が20種類あるのだそうだ。「降雪=カニク」「溶かして水にする雪=アニウ」「積雪=アプト」「きめ細やかな雪=プカク」「吹雪=ペエヘトク」「切り出した雪塊=アウヴェク」などなど。
しかし、日本語には「雪」ひとつしかない。
一方で日本語には「雨」を表す言葉は50種類あるそうだが、エスキモー語には「アプト」1語なのだそうである。このようにものごとの捉え方は文化によってコロコロと変わるあやふやなものだ。たぶん南の島に行けば「雪」という言葉自体が存在しない地域もあるだろう。降ったことがないのだから言葉も必要ない。
おなじく、日本語において「虹は7色」ということに決まっており、赤・橙・黃・緑・青・藍 ・紫の7色だということになっているのだが、英米では6色、中国では5色、ロシアでは4色なのだそうだ。
どれが正しくて、どれがまちがっているということもなくて、
にすぎない。色鉛筆みたいに1本ずつ7本並んでいるわけではなく、赤っぽい側から紫っぽい側までグラデーションになってつながっているので、どこで切るかによって見え方は変わるし、7色と「思う」のも、4色と「思う」のも思い込みにすぎない。
以上の事柄を広げて考えると、
であるということになる。
愛なき列島
たとえば現代では
とか
などといわれるが、日本語に「愛」ということばが入ってきたのは明治以降であり、キリスト教の影響なのだそうだ。南の島に「雪」という言葉がなかったように、日本語にはながいこと「愛」という言葉がなかった。
光源氏は物語の中で十数人の女性たちとエッチしているが、「愛」はなかったのである。「光源氏には愛がなかったが紫の上にはあった」とか、そういうレベルの話ではなくて、そもそも愛というコンセプトそのものが日本語になかったのだから、当時の日本列島では、高貴な人々から下々に至るまで老若男女を問わず、愛はなかったのであって、いわば
だったわけである。ただし、それで困ったかというとそんなことはなく、あれだけの文学作品を生んでいるのだから、愛がなくてもなんの不自由もなかった。
平安人に対して
などとたずねても
と言われるだけだろう。これは古代エジプト人に対して
とたずねても
と言われるのと同じであり、エスキモーに対して
とたずねても
と言われるのと同じことである。かれらには、そういうコンセプト自体がないのだから考えることも答えることもできない。
このようにすべての概念というのはある意味、思い込みにすぎないわけで、愛だけでなく、「真理」とか「善悪」とか「自由」とか「平等」とか「罪」などという概念もぜんぶ思い込みにすぎないよな・・という風に高校時代のぼくは考えていた。
それだけではない。そもそも「概念と呼ばれている概念」自体、どこにもないのではないか?と。
犬や猫に向かって
などときいても、にゃーとかワンとか言われるだけだ。彼らには十分に「愛らしい」ところがあるのだが、それを「愛らしい」などとレッテルを貼っているのは人間の思い込みにすぎない。
ちなみに、いまネットの動画サイトには死亡したウクライナ兵士を犬が食べている動画がアップされているけど、だからといってこの犬が極悪だというわけではない。
ドギーマンを食べている犬も、ウクライナ兵を食べている犬も、自分のウンコを食べている犬もぜんぶおなじ犬であって
だけのことである。ウクライナ兵を食べている犬を罪深いと思い、ウンコを食べている犬を恥ずかしいとも思うのは人間の思い込みにすぎず、虹を7色にわけているようなことである。
すべては思い込み
こう考えてくると、自由だの平等だの、愛だの憎しみだの、真理だの美だの、人間が言葉を使って考えている物事のほとんどは、ぜんぶ
にすぎないのではないだろうかと思えてくる。
言葉を使ってぼくらが語り合っている概念が、なんの根拠もないまやかしでないという保証はどこにあるのだろう。
もし、まやかしでない「ほんとうのなんか」があるとすれば、それはいったいどこにあるのだろう。こういう風に高校時代の僕は思っていたわけだが、54才にもなって、当時の気分をはっきりと思い出せるのには理由がある。
その気持ちが、ある風景とセットになって、スナップショットのように切り取られて、記憶にとどまっているのである。
高校の体育の授業で、むりやり器械体操の練習をやらされていたときのことだった。等間隔でグラウンドに整列して、ずーっと待っていなければならなかったのだが、そのときに上記のようなことを思って気が狂いそうになり、空に向かって
という無言の叫びをあげた。
もし宇宙に自分たち以外の存在がいるなら、ちょこっと教えてほしい。愛だの善だの自由だのといった概念や、そして概念という概念も含めて、犬の食べているウンコみたいなものにすぎないのか。
おい!だれか答えてくれ
と叫びそうなったときの気持ちは今でもはっきり思い出せる。当時の若者らしい不安感やら、自意識やら、傲慢さなどはさっぱり思い出せないのだが、空に向かって「だれか答えてくれ」と必死になったことは昨日のことのようにはっきりと思いだせる。
答えは得られる
そして、この問いが、やがて人生のときどきの方向性を決める最重要の物差しになっていったんだけど、これだけしつこくこだわっていると、やがて、それに対する答えらしきものもやがて得られたのである。今日言いたかったことはこれだ。
このnoteでは、映画だの音楽だの平和だの未来だの経済だのいろいろ書いているが、じつはそんなことはどーでもよくて、ぼくが人生を通じてずっと考えてきたのはたった一つ。宇宙に概念って存在するのか?というこのことだけであり、そして、これだけしつこく追及していると、やがて答えは思いもかけない方向からやってくる。
まだまだわからないことはたくさんあるのだが、この根本的な疑問への答えが得られた以上、僕の人生はとりあえず「よし」と思っている。知りたいことは十分にわかった。
だから、いまは「老後」のような気分で生きているのであって、これ以上の欲はとりあえずないというか、しいて挙げるなら、できる範囲で、なにかを残さなければならない。
ただし、単に思っていることを書き残すだけでは役に立たない。エライ学者先生の使っている「言葉と概念」を使って、かれらがなるほどとおもうような「幻想語」に翻訳して残さなければ「たわごと」と片づけられて終わってしまうので、残したことにはならない。
ぼくがホラー映画を見る時間やゲームをする時間を削って、エライ人達の書いた小難しい本を読んだり、数学を勉強したりしているのはぜんぶそのためなのである。なにかを学ぼうとか教わろうというような殊勝な気持ちはなく、自分をエラそうに見せようなどという素朴な色気もない。ゲンロンでなにがどうなるものでもない。
えらいひとたちの幻想語をマスターするために、内心では(たわけた連中がたわけたことを・・)などと思いつつ、その気持ちをグッとこらえて小難しい本を読んでいる。
犬や猫とでもパッと気持ちが伝わることがあるでしょう。あれがほんとうの「言葉」なのであって、学者先生のむずかしい言葉はぜんぶたわごとだ。
まあ、そんなわけで、あなたに本当に知りたいことがあって、本当の本当に知りたいとアツく思っているなら、人生で1つくらいはいずれわかるようになっているでしょう。というふうに、僕の経験からは言える。
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