星影さやかに

久々の読書。今日は一日本を読みたいなと思い、本屋さんに行ってじっくり吟味した結果、古内一絵さんの新刊「星影さやかに」を買った。するすると読みやすく、一気に読了できた。

本というのはすごく不思議なもので、なんの気無しに手に取っただけの本の内容が、自分自身の今の心情とリンクしていたりすることが多い。まぁ、小説の世界を映し出す私の内面世界の色が多分に滲んでいるからなんだろうけども。

私は小説を読んでいる時、読んでいるというよりは「観ている」という感覚に近い。文字で表現された世界の描写が、映画のように頭の中に映し出されている感覚。小説というのは文字でしか形としての表現ないけど、その紙と文字だけで読者の心の中に無限の世界を創造させるのだから、本当にすごいことだよなと改めて感じた。


「星影さやかに」は、激動の昭和時代を生きた家族の話だ。初めて東京五輪が開催された昭和39年、一家の大黒柱である父親が他界する。父の遺品である日記を次男(主人公)が手に取り、戦中〜戦後の家族との日々を思い出す形で物語は始まる。オムニバス形式で、家族を語る視点が次男、母、父、と変わっていく。

この父親はあることがきっかけで戦時中は「非国民」と呼ばれ、本人自身も抑鬱状態でまともに働けず家からも出られないという状態だった。その父に対する家族の目線が物語の中核に据えられている。

戦時中から戦後にかけてというのは価値観が180度ひっくり返った時代だろう。絶対勝つはずだった戦争に負け、天皇は人間になり、国の英雄だった軍人や政治家は戦争を扇動した犯罪者となった。アメリカ人は鬼畜ではなく普通の人間だった。

平和な未来に生きる私たちからすれば「そういうふうに考えていた時代もあったんだな」ぐらいにしか思わない。でも実際にその時代を生きていた人たちはどうだったのだろう、と想像してみるとやっぱりこれはすごいことだと思う。

今まで「正しい」と信じてきた世界が全て崩れ去る。

人はどんなに孤立していても、必ずなんらかの環境や条件下、関係性の中に生きていると思う。ルールがないゲームは成り立たないように、人が共存して生きている社会には必ず基盤、共有する地面のようなものがあって、その上に人々が立っている。

そしてその基盤が根こそぎひっくり返る。

今まで「ある」と信じていた地面が突如無くなっていることに気づいた時、人はまともに立っていられるのだろうか。

この物語の父親の趣味が天体観測なのだが、「宇宙」がそれに近い感覚なんだろう。私たちは地球という壮大な地面に立っているつもりでいるけれど、本当はその地球ですら宇宙に漂っている一つの星でしかない。私たちはもともと確かなものに根ざしているのではなくて、広大な宇宙に一人一人が「漂っている」のかもしれない。

正義や善悪、命の尊さですら、時代や環境によって移ろい変わっていく。そのことになんの疑問も持たない人もいれば、そうではない人もいる。

他人と何かを共有するということは、時には自分特有の感性を押し込めなくてはならない。自分の心の声とは真逆の方向に自分を取り巻く社会が突き進んでいってしまうこともある。

社会に適応するために折り曲げた自分自身の歪みに耐えられなくなった時、人の心は悲鳴をあげる。自分を守るために社会から外れた行動を取った時、社会はその個人を糾弾する。そうした個に対する不寛容さや差別意識というのは今の時代でこそ少なからずあるし、あの時代はもっと凄まじいものだっただろう。

社会からたった一人放り出されるというのは、まるで宇宙に漂っている感覚なんだろうなと思う。暗くて先も見えない、進んでいるかも自分が今どこにいるのかもわからない。考えるだけでも怖い。

でも、それでも人は力強く足を動かして自分で歩いていこうとするのかもしれない。踏みしめる大地はないし、どっちが前なのかもわからないけれど、それでも、自分の足を使って歩くことに意味を見出すのかもしれない。

何にも為せなくても、前にも後ろにも進めてなくても、どんなに空虚に感じても、自分の足を動かして歩くことをやめないこと。

無限に広がる宇宙の中で、命が尽きる日まで自分の足を動かして歩き続けること。

ただ「生きている」だけで、私たちはこんな壮大な冒険をしているのだということを思い出した。立派さとか地位とか名誉とか責任とか社会への貢献とか、それ以前に人生というのはただ「在る」だけで十分なんだよな、とつくづく考えさせられた。




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