男性、女性についての議論に思うこと

松本人志さんと週刊文春の裁判が始まり、きょうの昼のワイドショーはこの話で持ちきりだった。
ようやく、松本さん側の主張と週刊文春側(A子さん)の双方の主張がテーブルにあげられ、それを元に議論していた。初めからこの形での報道がされていればとは思うが、おそらく裁判に合わせてニュースバリューが最も高まったタイミングで出したかったのだろう。

松本人志さんのファンではないが、今回の文春報道や報道後の世間の反応、男女の性を巡るトラブルについて感じたこと、それを言語化して記しておきたい。

私は女性だ。
男の兄弟がいて、学生時代は全て男女共学の学校に通っていた。大学時代は男女混合のグループで飲み会したり旅行に行ったりサークル活動に勤しんでいた。社会に出て仕事を始めてからはやはり男性が多い職場だったが、女性もたくさんいた。

社会に出て、仕事に関しては男性だから、女性だからというような区別をされていると感じたことは、少なくとも私の場合はなかった。できる人、やる気のある人には男女に関わらずチャンスを与えられてたし、会社や周囲からの評価もそうだったように感じる。

これまでの人生において、男性を嫌ったり恨んだりしたことがないといえば嘘になる。酷いことを言われたり、最低な別れ方をしたり、利用されたり、露骨に女であることを見下してきたり、理由なく頭ごなしに怒鳴られたりもした。その時はその相手を憎み、怒り、時には恐怖を感じたりもした。

でも、その負の感情は「男性」に向けられるものじゃない。あくまで、私とその時々で向き合っていた「その人」に対する感情だ。そうじゃない男性たちもたくさん知っている。勇気づけてくれたり、安心させてくれたり、助けてくれたり、良い刺激を与えてくれたり、一緒にいて楽しかったり、男女問わず他者を尊重して接してくれたり、そういう男性たちとも出会ってきた。

今、社会で叫ばれている女性へのハラスメントや性行為強要へのヘイト、「女性の人権と尊厳を守る」という正論。
もちろん正論だ。でもそれを声高々に叫んでいる人たちにどうしても賛同しきれないのだ。

数年前に「Metoo運動」が起こった時も、私はどこか他人事のように見ていた。個々の性被害に遭い告発した女性たちのことではない。この「Metoo運動」を持て囃す社会にだ。女性なのに賛同も共感もできないのはなぜだろうと当時考えていた。私は環境や周りの人に恵まれ、性暴力を振るわれたことがなく、性被害に遭うことの辛さは想像すれども、やはり実体験として感じられない、そういう想像力や共感力の限界があったのかもしれない。

でも一番大きな理由は、その根底に「男性という生き物は本能レベルで女性を搾取し傷つけるべくできている存在なのだ」という考えを感じとったからだと思う。その価値観が社会に浸透していくのを感じとり、あまりに私が認識する現実と乖離していて困惑したのだ。

女性が男性からの性的搾取、暴力を訴えるのはいい。どんな証言であっても勇気を出して告発した女性が正しく、男性側の主張は全て言い訳である。では、女性から男性を性的行為に誘うことは全くないのか。密室で2人きりになった時、女性から男性を誘ってSEXすることはありえないと本気で思っているのか。その時、女性に誘われた男性の同意はどう捉えるのか。女性が男性を人間扱いせずモノのように扱う、「童貞非モテ男」「ATM」と見下し傷つける、そう言った例には目を向けないのだろうか。

他人を性的に搾取したり暴力をふるうのは誰であれ論外で、許されない行為だ。でも男性が必ず加害者側だというのはあまりにも理不尽ではないだろうか。女→男への搾取や暴力、傷つけられた男性の主張や言い分にも社会は耳を傾けるべきではないのか。

今回の松本人志さんの「性加害疑惑」報道は、現時点で、というかおそらく今後も、「真実」かどうかは明確にはならないだろう。しかし裁判の結果はどうあれ、一度こうした報道が出てしまえば、それをずっと信じ続ける人たちが一定程度存在する。「性犯罪者」というレッテルを一度貼り付けられてしまったら、たとえそれが冤罪だとしても、そのレッテルを完全に取り消すことは極めて困難だ。これは、まがいもない女性から男性への「力」の行使でもある。

だからこそ、情報を受け取る私たち個人、社会全体としては、性被害告発があった際、被害者とされる女性の証言に耳を傾ける一方で、訴えられた男性側の冤罪リスクというものも頭の片隅に入れておくべきなのだ。どれが本当に正しい情報なのかを吟味し、疑問点を洗い出し、それらを一つ一つ検証し、何を信じるか判断するべきだと思う。それをセカンドレイプと言われてしまっては、匿名の性被害告発について私はなんら感情も共感も抱くことはできない。

男と女どちらが悪い、悪くない、と言っているのではない。殊に性にまつわるトラブルにおいて、男女は身体的機能が異なることもあり、女性は受動的で男性は能動的である、という前提がある気がするが、それはただの思い込みに過ぎないのではないか、ということだ。

松本人志さんの件で合コンや飲み会が問題視された。「合コンや男女混合の飲み会では、男性は女性を獲物を狩るように品定めしているのだ」「男性が女性を飲み会に呼んで集めるのはそこに下心があるからだ」
このような意見を大真面目に語る著名人たちが少なからずいた。

いや、それは女性側だってそうです。合コンでは自分の狙った男性を落とそうと積極的に近づいたり、店を出た後2人きりになるために工作したり、VIPが集まる飲み会に積極的に参加して人脈やお金を求める「下心」ある女性もたくさんいます。

男性がやったら「上納システム」「性的搾取」となるのだが、女性がやるのは無問題!となるのはあまりに都合が良すぎないだろうか。いや、女性側もそういう下心やハンティングを楽しむ自由はありますよ、という当たり前のことがこの手の話題で議論の的にならないのは不可解すぎるのだ。

女性が危険な目に遭う、問題となる合コンや飲み会が全くないとは言い切れない。でもそんなものはケースバイケースだろう。
信頼できない相手なら、女性はお酒を飲みすぎないようにしよう。嫌ならホテルや密室にはついていかないようにしよう。嫌だということははっきりきっぱり嫌と言おう。それでも望まない行為を強制されたら、時間が経ってしまうと訴えられなくなるので、すぐに医療機関や警察、相談窓口に駆け込んで証拠を残しておこう。怖かったら弁護士や家族、信頼できる人に打ち明けてついて行ってもらおう。やばいと思ったらスマホもカバンも何もかも忘れていいからとにかくその場から離れよう。店の人やホテルの人に助けを求めよう。

危険な飲み会や合コンを議論のテーマとするなら、女性が身を守るための情報を教えてくれた方が参考になるし公共性に資すると思うのだが、それをせずになぜホモソーシャルだの「上納システム」だの「女衒」だの、「女を性的搾取する男が問題だ」と本質的では無い話題にすり替えるのだろう。

女であれ、男であれ、他人を騙して罠に嵌めて搾取する人間は古来から存在する。それを撲滅するのは理想だが、単なる理想論でしかない。それよりも、それに引っかからないための知恵と、不幸にもそれをされた時に絶対に泣き寝入りしないための手段を、しっかり社会で認識し共有する。男女問わず他人を陥れたり搾取したりすることは許してはならないから、社会としてそれを監視し罰する機能を強めるにはどのような法整備や公的機関の支援が必要なのか。そういう議論の方がよっぽど有意義だろう。

要はこの手の話題になると、女性の権利が大事!男性はクズ!という話に終始してしまい、解決へ向けた建設的な議論や意見が全く交わされないというのが現状なのだ。現実味のない戯言が空中に飛び交っては消えていくただの飲み会談義を、テレビや新聞、週刊誌などのメディアを通じて著名人たちが神妙な顔をして議論しているフリを見せつけられ、一体どんな感想を抱けばいいのだろう。薄っぺらい、の一言だ。

男女平等というのは、女性が男性を貶めて男性の地位を奪いたいということなのだろうか。

私は「男女対等」がいい。男性も女性も、お互いの違いや差を認識し合い、対等に生きていける社会の方がよっぽどいい。女性だけがのさばり、男性が肩身の狭い息苦しい世の中にすることには肯定できないし、それは男女の立場を入れ替えてもそうだ。今の社会を取り巻いている空気は、あまりにもフェアじゃないと感じる。妙な方向に向かっている気がしてならない。

女性が男性に虐げられ傷つけられることはある。そして男性もまた女性に虐げられ傷つけられることも当然あるのだ。その当たり前すぎる事実をしっかり受け入れたい。どちらか一方のみを重視するのではなくて、双方どうやってその傷を癒やすのか。お互いに傷つかない、傷つけないために、男女互いに相手にできること、理解すべきことはなんなのか。

公平な目で、正しい情報をもとに、それを考えていきたい。

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