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大海になればいいのに

「名前がついているもの」はこの世の中に幾多とあるけれど(むしろその方が多いかもしれない)、その名前は”どんなものにもすべて”広義、幅広い意味があるということを意識する、というのが当たり前な世の中になってほしい

例えば、名前が付けられない感情ってあるじゃん、「エモい」とか。
(これは結局名前を付けてしまっていることになっている)
本当はそんな言葉の枠組みにすらあてはめたくないんだけど伝えたり、残しておくために名前って道具使ってるだけなんだって。
「うれしい」って名前の感情があったとして、うれしいって名前がついてしまっているから考えたことないかもしれないけど、時によってうれしい感情ってまた違う。うれしいの名前がつく感情の中にもいろいろあって、グラデーションになっていて、そんな感情を表すときに最適な名前を見つけるだけで、その持った感情と、名前(ここでは「うれしい」)の意味/定義が、ばっちり、ミリずれることこともなく、キレイに枠に嵌まっているかといわれると、わからないという話

形容詞だけじゃなくて、本当にほぼすべてだと思う。
「赤」とかも、伝えようとするために言葉を尽くすこともあるけれど、気軽に言う「赤」は人それぞれまた違うし、実は赤って単純な名前じゃなかったりするし

それでも、伝えようとするために、気軽な名前ではなくて、広義の言葉でチューニングしないで、修飾したりして、より自分に近いものにチューニングして結局「名前」はつけなければいけない。私は国語も言語化も苦手だったけど、ある時、こうやって言葉を尽くすことは努力していこうと思った。だから、あえて名前を付けているものでも書き手のそういった意図はできるだけ読み取りたい。そして、この尽くし、意図をくみ取るということが広がっていけばいいのに

でも、言葉を尽くす人がいる一方で、名前の意味に幅があることを悪用してはいけないから。悪口を言ったとして、それは幅広い意味の中に良い意味もあるよで免れるわけではないということ。だから、結局名前を付けて、そこに幅広い意味があることがを意識していることが共通認識になって、それでも名前を付けていって、名前を付けた責任は重い、だから慎重に。ということもあたりまえな世の中に、ならないかな

この文章書いたのも名前で傷つけられた経験あるからで

「あたりまえ」の今を作ってきたつみって重い




2022.06.13

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