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書き手の見てる世界

 自分は毎朝、朝ドラを観ている。母ともよくその感想を話ししたり、博多華丸・大吉と鈴木アナウンサーの朝ドラ受けを楽しみにしている。ただ、ここ2回の朝ドラ、「ちむどんどん」と「舞いあがれ」は厳しい声も上がっているし、自分も気になってしまう点がたくさんある。主人公の夢に対する一貫性のなさ、ご都合主義な展開、「ちむどんどん」は挙げ始めると指摘が数えきれないくらいだ。
 ただ、この事態に自分は少し共感してしまう点もある。あくまで少しではあるが。自分は昔脚本を書いて人に見てもらっていたことがある。毎週1本書いては見せて、感想をもらっていた。ただ、そうすると、「面白くない」「主人公に葛藤がない」「うまく行き過ぎている」などの声はよくもらうものだった。それは朝ドラや他のドラマでもよく挙がる指摘だと思う。
 映画やドラマのシナリオ作りというのは、ある程度理論が確立されており、主人公には葛藤や障壁が用意されており、対立するキャラや魅力的な仲間がいて、主人公には冒険や仕事をする明確かつ境遇に基づく動機が求められる。というようなことは何冊か物語に関する本を読んだら勉強できたことだ。
 自分は脚本を書いていた時、このルールを知っていた。だが、それ通りに書けなかった。それは「作者の見ている世界」で作品を見ていたからだと思う。簡単にいうと創作に対して主観的に見ていたのだ。
 だから、自分の盲目的になった視点でセルフレビューして、「面白い」と判断してしまう。だから、人に見せて滑ったような感じになると「あれ?」っていう感じになるし、あとで読むと「なんでこれが面白いと思ったんだ?」と恥ずかしくなることも多々あった。このような経験をしたことのあるライターや作家さんは多いと思う。
 「じゃあ、客観的に見れるようになれば良いじゃないか」と言われるが、これがなかなか難しい。芥川賞作家の中村文則さんもコンクールに落ちている時、「とんでもない名作ができたと思って、舞い上がっていたけど、客観的に作品を見れていなかった」と語っていた。結局中村さんは「自分の原稿を紙に印刷して、できる限り客観的に評価すること」を心がけたらしい。セルフレビューというのは非常に難しい。
 ただ「作者の見ている世界」は悪いことばかりではない。その物語に没頭して考えているからこそ生み出せるセリフや展開というのもある。集中してスポーツをしている状態に近いのかもしれない。

 という感じに主観的に執筆してしまい、脚本がうまく書けないという話をしてきて、朝ドラの脚本家も大変だろうという話もしたい。しかし、朝ドラはやっぱりそういう話にはならない。NHKという組織があるのだから、脚本をレビューする客観的な環境はあるはずだ。ひょっとしたら、レビューされることで、キャストの都合や話の展開も捻じ曲げられてしまった可能性もあるから、どこまで脚本家個人の責任であのような話になったのかは判断できないと思う。でも、できる限り作者自身は「作者の見ている世界」以外でも作品を見ていて欲しいと願っている。

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