「オリジナル」の価値は、どこへいくんだろうか
数年前、気になる展示に出会った。それは「ウフィツィ・ヴァーチャルミュージアム」というもの。
イタリア・フィレンツェにある屈指の美術館、ウフィツィ美術館にある名作たちを、原寸大のデジタル画像で再現するという試みだった。
そこには、誰もが知る「春(プリマヴェーラ)」や「ヴィーナスの誕生」といった絵画の数々が、本物と同じ大きさで、寸分違わず忠実に再現されていた。
デジタル画像だから、本物とは違って分厚いガラスに囲まれてもいないし、間近で観察できる。
展示を見る前の私は、「ゆうて所詮は複製。本物とはレベルが違うでしょ」とタカをくくっていた。だけどショックだった。高繊細な画面に映し出されたその絵は、あまりに美しかったのだ。
本物の絵と、デジタル複製。そりゃ、2枚並べてつぶさに比べれば、違いに気づくかもしれない。だけどどうしたって、本物の名作というのはいつだって分厚いガラスで隔たれた状態でしか観られない。
ガラスの向こうの本物が、仮にデジタル複製と入れ替えられてしまったって、私はきっと気づかないだろう・・・そう思ってすこし背筋が寒くなった。
かつての絵画は、天才の腕をもってしかこの世に存在しえないものだった。ボッティチェリでないとヴィーナス誕生は描けないのであって、当然のようにオリジナルの絵画に価値があった。
だけど現在は・・・?
一般市民の私のような人間にとって、目の前の絵画が「本物」だという価値はどれくらいあるのだろう。こんなにもリアルな複製がつくれるのに。
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あれから5年ほどの時間が経ったのに、あの日感じた、不安にも似た感動は今も褪せていない。ことあるごとに、私の頭の中にふっと浮かぶ。
「オリジナルの価値って、なんだろう」
今までは完全に「原画こそが正義」という思いをなんの疑いもなく持っていたけれど、その考えが揺らいだ。
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この展示のことをまた思い出したのは、先日のヒーコイベントや昨日の「#読むでつながる」のイベントがきっかけだ。
ヒーコは写真について、「#読むでつながる」は本についての話だったけれど、どちらでも語られていることは結局同じだった気がする。
写真を撮る人にとって大切なのは、撮影者自身がどんな生き方をしていくかということ。本を読む人にとって大切なのは、読者自身がどんな考えを持って読んでいくかということ。結局は、その人自身が「どう生きるか」ということが大事なのだ、と。
この先いろんなテクノロジーが発達していって、かつては天才にしか作れなかったものが、容易に複製できる時代がくるだろう。
そうなったとき、その作品の価値がどこで決まっていくのか。その1つの答えがきっと、クリエイターの「生き様」になのだろう。どんな考えの持ち主で、どんな思いでその作品をつくったのか。そのストーリーが、きっと今後ますます大事になっていく。
クリエイター本人のもつストーリーの価値が高まっていく。テクノロジーの発展で複製が可能になることによって、逆説的にオリジナル作品の価値に光が当たっていくのかもしれない。
「あなたはどう生きますか」
5年前に観たデジタルのヴィーナスに、今、問いかけられている。
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