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「丁寧な暮らし」を馬鹿にしなくなった話

コロナの影響でずっと家にこもっている。1日中TikTokやらYoutubeやらを見ている。
1日中見ていると、普段見ないような料理やら、家具やら、モーニングルーティンやらの、「丁寧な暮らし」系の動画も、関連動画の流れで目にすることがある。

以前はそういう動画を見ると、「そんな細かいことにこだわって、ご立派ですねぇ」「こちとらそんなことにこだわって生きれるほど器用じゃないんで」「てかそんなに頑張って"丁寧"にして何の意味があんねん」と、バカにしたようなひねくれた気持ちになっていたのを思い出す。

いまだに「丁寧」からは程遠い生活を送っている。
でも、今は丁寧な暮らしを馬鹿にしようとは思わない。
その理由を書こうと思う。

「生活」の破綻は、「人生」の破綻

昔、私は「生活」をかなりナメていた。はじめて一人暮らしをした大学生の頃なんかは、特にひどかったと思う。

好きなだけ寝て、夕方ごろお腹が空いたらベッドから這い出し、スウェットのままコンビニへ。お金もないので安くてお腹が膨れるものを買って食べ、気がついたら家から出ないまま夜になっている。
 誰とも喋らない日が数日続くこともザラにあり、コンビニ店員との会話が久しぶりの発声すぎて、声がかすれることもあった。

その代わり、活動的になる時はとことん活動的だった。
自堕落なプライベートの時間を取り戻すように、授業やサークル活動では、過集中になったり、無駄にさわがしくした。

「外向きの私」しか知らない当時の友人は、私は躁だと思っていたかもしれない。でも、「内向きの私」も知ってる神様には、私はきっと躁鬱病のようにうつっただろう。

理由はおそらく、軽度のADHDだというのが少しと、当時の私の考える「こういう生活を送ることのメリット」があったのだ思う。
それは「オンとオフを0%と100%で繰り返す日々の方が、50%〜70%の日々をなんとなく過ごすよりもコスパ良い」というものだ。

やらねばならないことは無限に出てくる。
なるべくそれらに割く時間は少なくして、極力ベッドで寝ていたい。
ならば、毎日コツコツ終わらせるよりも、ガッと集中して終わらせて、何もしなくても良い時間を最大化したい。

今考えると「まともな生活をしない日があっても別にすぐ取り返せる」という言い訳をして、やらねばならないことを先送りしていただけだと思う。  

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結果として、「0%と100%の両極端だけの日々」は、すぐに「0%だけの日々」になった。

100%の日は、0%だった日の尻拭いから始まるので、とにかくテンションが下がる。着る服の洗濯をしたり、出かけるのに必要な荷物を発掘するために掃除をしたり。やっとの思いで出た授業は、当然ながら前回以前の授業内容を前提としており、たった1回集中しただけではついていけないことの方が多い。

サークル活動中も「他のみんなは、授業とか人生とか、ちゃんとした上でここに来てるんだよな」という考えが常に頭によぎる。パフォーマンスが良くても悪くても、なんだか後ろめたい。活動そのものに集中できない。

私の先の仮説は、0%の後に100%を出すのはすごく難しいことだということを、計算に入れていなかったのだ。

「昨日は0%だった」
「今日100%を出せば取り返せる」
「でも100%は難しいし今日は出せない気がする」
「ならば休んで力を貯めた方が得」

そんな謎理論でまた先送りし、気がついたら0%の日が連続している。

実際は(少なくとも最初は)何か取り返しのつかないような差が開いている訳ではなかったと思う。
だが、実際の差と、後ろめたさを抱えている当人が感じる差は全然違う。  
いくら頑張っても、もう全く追いつけないくらいの差が開いているような気がした。

そうなると、もう「つまらない」とかいう次元じゃなくなってくる。何もできない自分への自己嫌悪がすごくて、人生が本当に嫌になってしまった。今思い出しても、絶対あの頃には戻りたくない。

生活で、「からだ」と「こころ」を健康に保つ

そう考えると「ちゃんとした生活」というのは、とても便利な自分管理ツールなんだろうなと思う。

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私は「ちゃんとした生活」を、1. からだを健康にする活動と、2. こころを健康にする活動の2つがあるんじゃないかと思っている。

からだを健康にする活動は比較的わかりやすい。
例えば、睡眠・食事・運動のKPIをキープする、といったようなもの。「規則正しい生活」みたいに言われるものはこちらに入ると思う。

こころを健康にする活動も同じくらい大事だと思う。
毎日誰かと会話して笑う、誰かの役に立ってお礼を言われる、何かを学んで昨日の自分よりもできることを1つでも増やす、といったようなもの。

さらに、こころの健康に関しては、自分で決めることが重要な気がする。
何もせずに1日を過ごすにしても、「今日は休む」と決めてから休むのと、「そろそろベッドから出なくちゃ〜今日はやらなきゃいけないことがたくさんある。考えれば考えるほどベッドから出たくなくなってきた。どうしよう…」と思っているうちに1日が終わってしまうのとでは、どちらがこころに良いか、明らかだ。

何をやるかの決断において、後手に回らないことも重要なポイントなのだと思う。

心は試みを見逃さない

「ちゃんとした生活」が失われると、お金が足りなくなるとか、身体を崩すとか、そういう一次被害よりも「こころの健康が長期的に阻害される」という二次被害の方がよっぽど深刻だと思う。

私は「自分は日々の瑣末なことすらできない、ダメな人間である」という刷り込みを毎日自分に行っていた。
人並みの生活ができず、かといって代わりに何か頑張っているわけでもない。ただ時間を浪費している。そうい事実からくる後ろめたさ、自己嫌悪、情けなさが積もり積もって自分を苦しめることになる。

「ちゃんとした生活」は、自分を大事にし、自分には価値があると思えるようになるための行動の集合体なんだと思う。

体に健康な食材を選び、美味しいご飯を作ってあげる。
たっぷり睡眠をとらせてあげる。
朝日を浴びさせてあげて、外が気持ち良い日には連れ出してあげる。
素敵な芸術に触れさせてあげて、泣いたり笑ったりさせてあげる。

こういうことは自分の好きな人や大切な人には喜んでやってあげたいことだけれど、気がつくと自分自身には疎かにしていることが多い。
大事にされていない人が、心身の健康を損ねるのなんて、考えてみれば至極当たり前のことなんだよな。

結果的に10%や20%しか頑張れなくても、「自分を大事にしようとした」という意思を、自分のこころは見逃さない。だから、100%のパフォーマンスをなったかどうかは、こころの健康に関して言えば、多分あんまり関係ない。

こういう考えを「セルフ・コンパッション」というらしい、と後から知った。「自分に甘いよりも、自分に厳しい方が絶対いい」と思っていた私にとっては衝撃的だったが、実際に経験していると、なるほどしっくりきた。


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