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「いらっしゃいませ」が「こんばんは」に変わった日


それがいつのことだったか、具体的に覚えているわけではない。
だけどその日からそこはいつも私を温かく迎え入れてくれる、大好きな店になった。


1.一人暮らしを始めて


大学を出て社会人になり、初めての一人暮らしを始めた。
それまで一度も降りたことのなかった都内の街で、一人。



大学時代は一人暮らしの友達が心底うらやましくて、就職とともにそれができると決まって、ずっとワクワクしていた。

自分で選んだものだけを置いて、好きな時に好きなことをして、好きなものだけ食べて、友達や彼氏を呼んだりして。


夜中に出かけても、朝まで飲んでも、お風呂に入らなくても、二日酔いで一日中寝ていても、誰にも何も言われない生活。

駅から離れた家で心配性な母親と暮らしていた私にとっては夢のようだ。





引っ越しの日。



母と妹が手伝ってくれ、次々と届く家電や家から持ってきた荷物の数々をほどいていった。
お昼は駅にあったパン屋で買ってきたパンを、段ボールだらけの部屋のフローリングに座り、三人で食べた。



一通り作業が終わって空も暗くなり始め、母と妹が帰る時間になった。

「それじゃあね。」

そう言って二人が笑顔で手を振ったとき、言いようのない寂しさが胸を襲った。



ドアが閉まって、静寂が訪れた。

知らない街、見慣れぬ部屋に、一人ぼっち。

今日からここで一人で寝て、一人で起きて、一人で食べて、一人で生きる。
あんなに憧れていたことが、いざ現実になると、怖く、寂しい。

その夜は、まだテレビもないから、スマホを見ながら、スーパーで買ってきたグリーンカレーをチンして食べた。





2.”いちばん鶏”との出会い




その店、いちばん鶏は、私の住むマンションのすぐ隣にあった。
黄色い看板が目印の、小さな焼き鳥屋さん。

夕方になると漂ってくる美味しそうな匂いに、すぐに行きたくなった。



マンションは会社の借り上げだったから、同じ棟に同期が何人かいた。

親睦会を開催しようとなり、場所は、私の熱烈な希望でいちばん鶏になった。





初めてお店に足を踏み入れると、爽やかで優しい笑顔の店長さんが迎えてくれた。カウンターの向こうで丁寧に串打ちをしていた。



お店はカウンター数席と、テーブル席が数席。
小さいけれど小ぎれいで、木の温かみが感じられる、なんだかおばあちゃんちのような店だ。




一番奥のテーブル席に通されて、ハーフ&ハーフの生ビールを注文した。この手の焼き鳥屋で黒ビールがあるのは珍しい気がする。



ビールで乾杯をすると、そのすぐ後に突き出しが出された。

肉じゃがだった。


あの味はこれからもきっと忘れない。

甘めだけど出汁が効いていて、じゃがいもはねっちょり柔らかく、本当に、本当においしかった。

この肉じゃがだけですでにこの店が大好きになり、これから何回も通うことになることを確信した。



3.日本一の焼き鳥



肉じゃがが絶品だという話をしたが、いちばん鶏の一番の魅力はそれではない。

肉じゃがはそもそもレギュラーメニューですらない。(レギュラーにしてくれと心の中で熱望していたけれど)

いちばん鶏の魅力は、何といっても焼き鳥の美味しさである。

私は焼き鳥マニアでも何でもないけれど、それなりの酒飲みとして、後にも先にもここよりおいしい焼き鳥を出す店はないと言いたい。

少なくとも、私はまだ出会っていないし、これからもきっと出会うことはないだろう。


本当に、本当に、美味しい。

そもそも焼き鳥って美味しいし、それなりに美味しい焼き鳥を出す店はたくさんある。

だけど、いちばん鶏はレベルが違う。

まず、素材が美味しい。
新鮮なのか、良い肉なのか、素人にはよくわからないが、美味しい。

そして、焼き方が素晴らしい。

時間なのか、火力なのか、これも素人にはわからないが、絶妙だ。

その肉が一番美味しくなるような焼き方をする。

特に驚くのが、ささみ。

焼くとパサパサになりがちなささみが、ふわっふわなのだ。

ささみシリーズの中でも特に”チーズ焼きのチーズダブル”が好きで、胸肉の串の上にこれでもかというくらいトロトロのチーズがかかっている逸品。

写真を見ただけでよだれが出てきそう。

メニューはさほど多くないが、何を頼んでも間違いない。

一品料理も最高に美味しい。

ちなみに塩味の焼き鳥には味噌をつけてくれるのだが、酒飲みなら、その味噌だけでも2~3杯は飲めるだろう。


3.「いらっしゃいませ」が「こんばんは」に変わった日


何回目の来店日だろうか。

「この前もいらしてくれましたよね」と、店長がいつもの笑顔で話しかけてくれた。



居酒屋の店員さんにそんな風に話しかけられるのは初めてで、なんだか恥ずかしかったけれど、うれしかった。

家がとても近いこと、仕事のこと、いちばん鶏の焼き鳥に惚れたことなどを話した気がする。


それから幾度となく通い、その度に店長は優しい笑顔で「あ~どうも~こんばんは~」と迎えてくれた。


友達が家に遊びに来たとき、同期と仕事の愚痴を語るとき、飲み会で飲み足りなかったとき、夜一杯だけ飲みたくなったとき、一人暮らしの寂しさに襲われたとき、彼氏ができたとき…

知らなかった街で唯一、「ただいま」と言いたくなるような場所だった。

すごく頻繁に通っていた、というわけではないけれど、3年間、ずっと変わらない存在だった。


昔好きだった人の真似をしてキャップを積み重ねていった焼酎のボトルは、どんどん背が高くなって、ある日、「もう棚に入らないんです」と笑われた。




4.街を出る



今年の春、会社を辞めて街を出ることになった。

いちばん鶏にもなかなか通えなくなる。

後輩を連れて、最後に飲みに行った。

「あ~どうも~こんばんは~!」

バタバタとしてしばらく行けてなかったけれど、店長はいつもと同じ笑顔で迎えてくれた。


「焼酎を空にしに来ました」と言ったら、
「まだこっちにいらしたんですね!もう行っちゃったのかと思ってましたよ~」と笑いながら、背の高いボトルとウーロン茶のセットを持ってきてくれた。


こげ茶色の木のテーブル、薄汚れたポスター、手書きのメニュー、カウンター越しに見える、丁寧に串を焼く店長の姿。

見慣れた光景が思い出に変わってゆくのを感じ、胸がじんわり熱くなった。


大好きなメニューを全部頼んだ。

じっくり丁寧に焼かれた焼き鳥。
やっぱり日本一美味しい。


美味しくて、うれしくて、幸せで、ちょっと切ない。


たらふく食べて、飲んで、しゃべって、笑って、本当に楽しい夜だった。







お会計をして、店を出る。

店長が外まで出てきて、「頑張ってください!応援してます!!」と見送ってくれた。

「ありがとうございます!必ずまた来ます!!」と、手を振った。




ここで飲むしあわせ。
心から感じた夜だった。


5.またいつか…


あの街を出て、10ヶ月。

あれから世界が大きく変わり、いちばん鶏には一度も行けていない。


世界中の飲食店が苦しい思いをしているだろうけれど、、いちばん鶏は大丈夫だろうか。

ふと思い出しては心配になる。





また、あの場所で飲みたい。

店長の焼いた焼き鳥と、ウーロンハイ。
一杯目はハーフ&ハーフの生ビールが良い。




まだすぐには無理かもしれないけど、いつか必ず。



その時には世界が今より少し平和で、
今より少し成長した私でありますように。




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