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ロシアの落下傘兵の体験記「ZOV」 : クリス・オウエンのツイートから: パート(4)ミコライフへの進撃

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2022年3月1日、ロシア軍がウクライナの都市へルソンを占拠した。その中には落下傘兵のパヴェル・フィラティエフも含まれており、彼はその後、自らの体験について141ページに及ぶ辛辣な手記を書いた。今回は、ミコライフへの悲惨なロシア軍の進攻についての彼の説明を続けている。

フィラティエフが、戦前にクリミアで第56親衛空襲連隊の訓練を受けた6ヶ月間(理論上というより実際)については、こちら

2月24日の侵攻開始直前と直後をカバーする後編はこちら

パート3では、組織化されていないウクライナの抵抗に直面し、行き当たりばったりで無秩序なロシアのケルソン占領を強調している。リンク

『ローマの蛮族』という絵を見たことがあるだろうか?3月1日の夕方、へルソンの港に到着したフィラティエフは、「何が起こっているのか、これが一番よく表している」と書いている。彼の部隊は、港の管理棟を占拠した。

「みんな疲れきって暴れているように見えた。みんな食べ物、水、シャワー、寝る場所を求めて建物を探し始め、何人かはコンピューターや価値のあるものを運び始めた。」彼は新しい服やシャンパンを手に入れた。

フィラティエフは、「家電製品を持ち運ぶことに嫌悪感を覚えた」と書いている。しかし、なぜそうする人がいるのか、彼は理解していた。「給料で買えないのに、コンピュータというトロフィーを手に入れずにはいられない人がいるのは、そんなに不思議なことか?」

彼は他の場所で何が起こっているかを知るために、ウクライナのテレビニュースを見ていた。「ロシア軍が四方八方から進撃していること、オデーサ、ハリキウ、キーウが占領されていることだけは理解できた。 壊れた建物や負傷した女性や子供の映像が流れ始めた。」

「死傷者、特に民間人に同情したが、ニュースを見て少し楽観的になった」 「ロシアがキーウ、オデーサ、ハリキウを早く奪えば、このクソみたいなことが早く終わる。」

兵士達は、事務所の中にキッチンを見つけた。1ヵ月間、洗濯もせず、普通の食事もとらずに耐えてきた。「我々は野蛮人のように、そこにあるもの全て、シリアル、オートミール、ジャム、蜂蜜、コーヒーなどを食べた。全てがひっくり返り、手当たり次第食ベられるものは全部食べた。」

ロシア軍は、散発的な銃撃はあったものの、最小限の犠牲者でへルソンを占領した。占領軍は、30万人近い怒れる市民を相手にしなければならない。しかし、このような事態に、訓練を受けていないフィラティエフは頭を抱えていた。

「もちろん、我々が招かれざる客であることは理解しているが、彼らの安全のためには、我々に近づかないほうがいい。これは我々の専門ではない。我々はRosgvardiya(国家警備隊)でもOMON(機動隊)でもないんだ。」

「誰も民間人に “何でここに来たのか”を説明したがらない。自分達でもわからないし、司令部がただ(侵攻)寸前に出動命令を下したそれだけだ」フィラティエフ自身は、ある男性を逮捕する際、ライフルの尻で頭を殴るなど、手荒な扱いをしたそうだ。

ロシア軍司令官は、平和的な権力移譲のために地元の政治家と交渉を開始した。OMONとRosgvardiyaは3月2日に到着し、民間人を処理した。ワグナーグループの公然たる極右・ネオナチのルシッチ部隊の傭兵も警備にあたった。

3月3日、彼の部隊は、へルソンの港を出て、ミコライフとオデーサを北上する部隊に合流せよとの命令を受け、落胆した。「みんな疲れているんだ」というのが、上層部の本音だろう。それでも彼らはトラックに戻り、出動した。

本格的な戦闘に突入したことは、すぐにわかった。トラックから降り、砲撃を受けながら徒歩で野原を進み、放棄されて廃墟になったウクライナの陣地にたどり着き、砲弾やミサイルが頭上を飛び交う中、そこを隠れ家とした。

「我々の周りには、ウクライナ軍の放棄された陣地や装備、ジャベリンの箱、放棄されたウクライナ軍の歩兵戦闘車両があった。我々の近くで銃撃と爆発があったが、少し前方では、誰が、どこで、何をしたのかはよくわからなかった。」誰も指揮していないようだった。

「暗くなり始めると、戻って来たロシアのUAZ車両が我々の前を通り過ぎた。車を止めさせて、あっちはどうなっているのかと尋ねると、...彼らは戦闘になり、前方には要塞化されたウクライナの陣地があり、我が軍は無秩序に退却しているようだった 」と言う。

大隊長が死んだという噂で眠れぬ夜を過ごした後、フィラティエフとその仲間はミコライフへの道にある帯状の森に陣を敷いた。砲撃を受け、何人もの落下傘兵が死傷した。

「森の中で大きな木の下に隠れていると、誰かが同じ木の陰に隠れている将校に、“同志少佐、我々はどうすればいいのですか?” と言った。答えは、“そんなこと知るか、俺は司令官じゃない、政治将校だ!” だった。彼らはトラックへ逃げ帰った。」

「車両に戻ると、全員が無秩序に後方へ走行し、途中、パラシュート大隊の(2S9Nona自走砲)が陣地を取り、ニコラエフスクに向かって発砲しているのが見えた。全体として、皆が無秩序に退却しているような感じだ。」

ミコライフから戻って来たロシアのヘリコプターを見たが、少なくとも5機がそこで撃墜されたことを後で知った。「車で戻ったが、何が何だかさっぱり分からなかった。」誰かの命令で銃撃が止み、彼に思わぬ希望を与えた。

「和平が成立したような印象を受けた… 司令官は3月8日を家で祝うことが出来るだろうと言った。数日前、テレビで見たんだ...キーウとハリキウを爆撃しているところを。それと海兵隊がオデーサを占領したという噂があった。」

空挺部隊はへルソン空港まで退却し、そこで以前掘った塹壕を再び占拠した。砲兵隊と歩兵隊を増強したが、フィラティエフは歩兵隊に(使い物になると言う)確信が持てなかった。

「歩兵は奇妙な服装で、古いヘルメットに古い迷彩服、...ドネツク人民共和国からのだった。役立たずだと思って見下していたのだが、彼らのほとんどは45歳くらいで、力づくでここに引きずり込まれたことに気付いた。」

「機動歩兵が集団で出動を拒否している、そのためか休みが取れないのではないか。拒否者達に対して怒りがあった。」という噂も飛び交った。翌日、ロシア軍はミコライフの奪取に再挑戦したが、またしても激しい砲火を浴びることになった。

ミコライフとへルソンの国境付近に陣取っていた。少人数ながら、20kmに及ぶ前線に展開した。フィラティエフの迫撃砲部隊は1日で半数を失うなど、激しい砲撃で進撃が止まった。

挺身隊は、それから1カ月間、ずっと居座り続けた。「グラウンドホッグ・デイ(聖濁節)だった」とフィラティエフは書いている。ウクライナの大砲はロシア軍に、ロシアの大砲はウクライナ軍に発砲し、両軍の兵士は塹壕の中で砲撃に耐えた。

「我々の航空支援はほとんど見えなかった。我々はただ最前線の塹壕の中で、洗濯もせず、食事もせず、普通に寝ることもせず、自分の位置を守っていた。みんなヒゲと土まみれで、軍服もブーツもボロボロだった。」

食べるものは乾燥した配給品だけだった。それから、配給は2日に1回、1人1パックに制限された。そして、食糧は底をつきた。「しばらくして、上の方の賢い兵士が、我々の陣地の後ろに野戦調理場を置くことにしたんだ・・・。そのせいで、砲撃が増えてしまった。」

フィールドキッチンの食事はほとんど食べられず、ほとんどの兵士が食べなかった。ドローンもまた、常に存在する危険物であった。「星(バッチ)を持つ賢い人は一人も、日々の車両の移動を禁止することを考えなかったお陰で、砲撃が増えて行いった・・・。

「ドローンから車両の行き先が見え、砲撃が続く可能性が高かったため、ほぼ全ての(着信)機器が破壊された。」ウクライナ側は反撃して来たが、ロシア側は持ちこたえた。彼らはますます悲惨な状況に耐えていた。

兵士達は「この地獄から抜け出す」ために自分の手足を撃ったり、怪我をするようになった。「ほとんど全員が菌に冒され、ある者は歯が抜け、皮膚が剥がれ落ちていた。」男達は「ますます怒りっぽく」なった。ある者は大酒を飲み始めた。

彼らは指揮者を責めた。「多くの者が、自分達が戻ってきたら、司令部に、準備(の欠如)と無教養な指揮者の責任をどう問う詰めてやろうかと話し合っていた。」彼らは、自分達が聴いていたラジオ放送をやっていたウクライナ人を非難した。

特にロシア人は、ウクライナ人が自分達を凶暴で残忍な「オーク」として描いていることに腹を立てていた。そこで彼らは、ウクライナ人の捕虜の指と生殖器を切り取って、その不満をぶつけた。

4月初め、キーウを攻撃していたロシア軍集団が撤退した。フィラティエフの部隊は、それが“親善のジェスチャー“だと伝えられ、和平交渉が進んでいると聞かされた。「俺はすぐに、そんなの嘘っぱちだ、誰があんな風に撤退させるんだよ、損失は大きいに決まってる、と言った。」

塹壕戦の恐怖は、フィラティエフに大きな影響を与えた。「砲撃があるたびに頭を地面に押し付け、”神様、もし生き残れたら、これを変えるために何でもします!“と思った。」

「方法は分からないが、我が軍の失態や混乱の原因を作った者は全て罰を受けて欲しかった。死ぬのは怖くなかった、こんな馬鹿げた事のために自分の人生をあきらめる事に腹が立った、人々は何のために、誰のために命と健康を捧げたのかと思い傷付いた。」

フィラティエフにとって戦争が終わったのは、それから2週間後のことだった。「4月中旬になると、砲撃で目に汚れが入り...角膜炎になった。目を失うかもしれないという危機感から、5日間苦しめられ、既に目が閉じていた頃、俺は避難した。」

フィラティエフは病院に運ばれ、治療を受けた。次回は、そこで彼がどうなったか、そして、なぜロシアが戦争に突入したのかを知った後、反戦活動に転じたかを紹介する。/終

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