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美しさを聞く

「聞く」という日本語は、ちょっと面白い。

子供があーだーこーだと言うことを、「聞き分けが悪い」と表現する。お酒の良し悪しを判断することを「聞酒」という。香道の世界では、香りをかぐことを「聞香」という。つまり、香りとは「嗅ぐ」ものではない。「聞く」ものなのだ。

日本語において「聞く」のは、耳だけではない。耳から入る音情報に対して使われる英語の"listen"よりも、だいぶ幅が広い。ものごとをよく観察し、心で受けとめ、頭で考え、自分なりに咀嚼する。全身全霊で向き合う。そんな意味が「聞く」という動詞には込められている。

私がこの記事の題名を『美しさを聞く』としたのは、〈聞く〉という動詞の行為こそが、日本人の美しさに対する本来の態度を適格に表現していると感じるからである。すなわち、日本の伝統文化の本質的な美しさとは、単に受動的に〈感じる〉ものではなく、五感をフルに活性化させ、能動的に頭と心を働かせながら〈考える〉ことを必要とするのだ。

「見立て」という多くの日本の伝統文化に共通して用いられる技法は、ものごとをそのまま直接的に表現するのではなく、別のものごとになぞらえて表現することで、受け手側の想像力を掻き立てる技法である。

十分すぎるほどの情報と物質に溢れ、変化の激しい現代では、何ごとにもそこそこのわかりやすさが求められるようになってしまった。ゆえに、日本の伝統文化が謙虚に醸し出す美しさが理解されにくいという現実も、仕方ないのかもしれない。

しかし、生物学者・本川達雄は、ご自身のベストセラーである『ゾウの時間ネズミの時間』で、こんな一節を書かれている。

足りない部分を「想像力」で補って、さまざまな生き物の時間軸を頭に描きながら、ほかの生き物と付き合っていくのが、地球を支配しはじめたヒトの責任ではないか。この想像力を啓発するのが動物学者の大切な仕事だろうと私は思っている。

本川達雄『ゾウの時間ネズミの時間』

そう考えると、想像力なくして感受できない日本的な美しさは、もしかしたら人間の根源に迫る美なのかもしれない。

書家、茶人、能楽師、歌人、庭師、画家、絵師、…。日本の伝統美の担い手たちは昔から、受け手側の想像力を掻き立てる芸術をつくりあげることに命を懸けてきたのである。私たちは、彼らが語りかけようとしていることを全身全霊で受け止め、内なる価値観や精神性と照らし合わせながら、心で静かに美しさを「聞く」ことが必要なのだ。

では果たして、「美しさを聞く」とは具体的にどういうことなのか。
裏を返せば、日本の伝統美の担い手たちは、どのような技術をもって、私たちに語りかけるのか。

この問いについて考えを深めることで、日本の伝統文化の美しさの正体が少しでも構造化され、現代の社会において再現可能なものになるきっかけとなれば、これ以上嬉しいことはない。

日本人は、美しい状況をプロデュースする達人

美しいとは何か

そもそも「美しい」とは何か。
何とも果てしない問いだが、自分なりに考えてみようと思った。

そこで手に取ったのが、(ド直球にも)高階秀爾先生の『日本人にとって美しさとは何か』である。「実体の美と状況の美」という章に、まず興味をひかれた。

なるほど。「美しさ」には、そのような区別があるのか。
と思いながらさらに読み進めると、こんな一文があった。

実体物として「美」を捉えるという考え方は、日本人の美意識のなかではそれほど大きな場所を占めているようには思えない。

高階秀爾『日本人にとって美しさとは何か』

つまり、こういうことである。

日本人は昔から〈実体〉そのものの普遍的な美ではなく、〈状況〉に美しさを見つけ出してきた。言い換えると、私たち日本人は、「なに」が美しいのかを問うよりも、「どのようなとき」に美しさが生まれるのか?という問いに感性を働かせてきた。状況とは、時間とともに移ろいゆく、儚いものである。だからこそ日本人には、〈いま〉という瞬間をよりいっそう重んじ、愛おしく思う心が育まれているのである。

ここで新たな問いが生じる。

美しい「状況」とは何なのか?

「美しさとはそもそも何か」という抽象的な問いが、「状況」という言葉によって多少なりとも具体化された。ここからはいよいよ建築が無関係な話ではなさそうなので、建築家としては都合が良い。

「状況」の因数分解

著書『インテリアと日本人』において内田繁が、日本の伝統建築には、空間と装飾・道具を明確に区別するという決まりが存在することを指摘している。この空間と装飾の関係性こそが、〈地〉と〈図〉で構成された日本的空間の構図であるが、この分類を用いると、「状況」とは以下のように因数分解できるのではないか。

  1. 状況が発生する空間である〈地〉

  2. その空間に存在する道具や装飾などの〈図〉

  3. 物で彩られた空間において行われることや人の動きなどの〈行〉

ここで言う〈地〉とは、例えば、建築や庭園。〈図〉とは、道具や装飾。〈行〉とは、作法や慣習のことである。例として、日本人が独特な美意識をもってつくりあげてきた〈茶の湯の席〉という状況を考えてみる。

茶会を催す場である茶室建築、あるいはその空間を彩る装飾そのものも、充分に美しいのはもちろんのことだが、それ以上に美しいのは、季節や客ぶりを鑑みながら亭主が丁寧に選んだ掛軸・屏風・花などが飾られた茶室のなかで、心を込めて点てられたお茶をいただくという「状況」なのである。

このように要素を分解し、改めて日本の伝統文化について考えてみると、美しい状況とは〈地〉〈図〉〈行〉の掛け算で成立しており、どれかが単独で存在していることにあまり意味はない。日本の伝統芸術の本来の美しさは、〈地〉〈図〉〈行〉が共存し、互いに影響し合いながら、刻々と表情を変えてゆく状況によって定義されるのである。

状況=地×図×行
どれか一つでも存在しなければ、「状況」は存在しえない。

状況を構成するために物理的に存在する〈地〉〈図〉、ならびに、その場における〈行〉。前者をハードウェア、後者をソフトウェアと言い換えられるとすれば、状況とは、ハードとソフトの連続性によって定義される。

では、ハード面において空間と装飾・道具が区別されていることに、どのような意味があるのか。この問いに答えるには、「時間」という新たなパラメータを投入する必要がある。つまり、時間軸における〈静〉と〈動〉、言い換えれば、可変性の有無を切り分けるためではないだろうか。このようにして日本の伝統建築は、〈いま〉という時間感覚を大事にする日本人の真髄を体現しているのである。

◆ 地|建築・庭園・露地

状況をつくる3つの要素のうち、変化しない、あるいは、変化の速さが極めて緩やかな〈地〉は、変わりゆくことが前提である〈図〉と〈行〉を受け入れる、いわば器のようなものである。茶の湯の会(茶席)やお香の会(香席・香筵)は、神社・寺・庭園などに付随した建物の座敷を利用するのが一般的であるが、ここに刻々と変化する要素が入り込むことで、静かにたたずむ空間、すなわち〈地〉に動きが生まれる。

では、これを可能にするのは、建築や庭園といった〈地〉のどのような特徴なのだろうか。

変化の受容(地→図)

まず一つ目に、水平性というキーワードが挙げられる。長押・鴨居・軒先・障子・書院造の床・違い棚・付書院といった建築の細部から、雁行するように設計された建物全体の配置まで、すべてが水平ラインの連続性を強調したデザインとなっている。これは、待庵のような小さな茶室から桂離宮のような大きな書院造まで、日本の伝統的な建築のほとんどに当てはまる。

日本人の生活文化の中心軸は、自然。諸行無常である自然を生活の中に取り入れるためには、空間に単純さを求めた。季節・儀礼・人の心といった「時」の要素を自由に取り入れるための単純性を、水平の感覚によって表現してきたのである。

水平的な要素で構成された建築は、その時々に合うように亭主が設えた空間と、選び抜いた道具や装飾を自然と空間に溶け込ませ、また、その存在感を最大限に引き立てるのである。かくして日本の空間は、プロデューサーである亭主の腕のの見せどころとなるのだ。

松涛庵|金沢21世紀美術館 © Yuri Murata

身体的動作の誘発(地→行)

『日本語と建築』でも書いたとおり、日本の伝統空間における「境界」には、身体の動きを自然と誘発するような仕掛けが多く存在する。これらの境界は認識的ではあるものの、単なる象徴なのではなく、身体の物理的な動きを促すことで心が切り替わるよう仕向けているのである。言い換えれば、〈地〉の在りようが、身体的・精神的の両面において〈行〉を規定しているのだ。

有楽苑 | 愛知県犬山
© Yuri Murata

茶道や香道といった日本の伝統的作法(点前)においては、「一畳」というの身体感覚がすべての基準となっている。畳はいわば「ものさし」のような機能をもち、畳を基準とすることで、自然と綺麗な動きになるように設計されている。

さらには、お茶やお香の席において客は通常、畳半畳に一人が座るのが良いとされている。初めて顔を合わせる人と隣の席どうしになることも少なくないお茶事において、畳の縁という建築的要素が自己と共有のスペースを区切る境界線の役割を果たし、隣席との適切な身体的・物理的距離感を誘発している。

畳の名称。ぞれぞれに機能をもつ。

日本文化は、型から入り型から抜ける「型の文化」と云われるが、一畳という単位を基準とした動きを一度身体が覚えてしまえば、お茶時に関係なく、畳のない場面においても、無駄なく美しい身のこなしができるようになるのである。

◆ 図|道具・建具・装飾

実用品の芸術性(図→行)

日本では、屏風絵や襖絵が建具として建物を構成していたり、あるいは、茶席や香席などで用いられる道具にも数々の名品が存在することから明らかなように、日常生活のなかで用いられる〈実用品〉に芸術的価値が見出されてきた。このように実用性と美的表現が共存しているという特徴は他の文化においては類を見ないが、これこそが、日本人が「状況」の美しさを追及してきた結果であると言える。

美術史家の高階秀爾は、マスターピース(masterpiece)という英語に〈名作〉という言葉を当てている。 よくよく考えてみると私たち日本人は、〈名〉をつけることでものごとに価値を与えてきたのかもしれない。

千利休が良しとした器は、名茶碗
過去の歌人たちによって歌われるほど素晴らしい景色は、名所
足利義政の命により、志野流香道志野宗信・御家流香道三条西実隆が選んだといわれるのが、六十一種の名香

たかが名、されど名なのだ。

そのもの自体の価値よりも、過去に誰がどのように使ってきたかが重要視される。すなわち、日本の美しい状況をつくりだす道具・装飾などの〈図〉は、人の〈行〉を介し、時間をかけて育てられることで名作たりうるのである。

「埋木(むもれぎ)」という銘の香木|© Hironori Handa
300年前から伝わる香木|© Hironori Handa
御香割道具|© Hironori Handa

空間との一体化(図→地)

「地」の章では、日本建築・露地の在り方が変わりゆくものを許容するように設計されていることを述べたが、その逆もしかりである。つまり、美しい状況を演出する道具・装飾・建具は、空間になじむように綿密に計算されているのだ。

私の母である書家・村田清雪の作品を例に挙げて説明したい。

彼女がつくりあげる〈短冊〉〈香記〉といった仮名の作品は、本来であれば記号にすぎない存在である〈文字〉のそのものの造形の美しさを賛美し、昔の歌人たちが大切にしていた決まりごとを丁寧に受け継いでつくられている。さらには、その和歌の意、あるいは、その和歌が詠まれた背景に寄りそう変体仮名をたくみに使いこなすことで、見る人の心の中に色鮮やかな情景を繰り広げている。つまり、和歌が醸し出す世界観を、書によって「今」という空間に映し出しているのである。

清雪の作品は、実際の物こそ大きくはないものの、筆を呼吸にのせてつくりあげる墨の濃淡の迫力、ならびに、計算されつつも、あたかも自然発生的に生まれたかのように見える絶妙な余白が、それが置かれた空間と呼応しつつも、唯一無二の存在感を示している。

六歌仙短冊|僧正遍照
© 村田清雪

◆ 行|作法・礼法・行事

ここまで、美しい状況をつくりだす物理的な側面についてみてきた。最後は〈行〉について。〈行〉とは何かを明確に定義することは難しいが、大まかに作法・礼法などの決まりごとや、実現するために必要な知識・技術などと考えていただきたい。

日本の伝統文化が一見わかりにくいのは〈行〉が原因しているのかもしれないが、日本的な美しさを最も特徴づけ、より一層の深みを与えているのも〈行〉の存在なのである。

深みの付与(行→図)

香道を例に考えていきたい。

香道とは、香木の香りを鑑賞する日本の伝統芸道のひとつであり、香木の香りを聞き、鑑賞する聞香(もんこう)、香りの異なる二種以上の香木を用い、同じ香りか異なる香りかを当てるという遊びである組香(くみこう)の二つが主な要素である。なお「お香の席をもつ」とはすなわち、組香を行うことである。

香筵は自己と他者が共有する空間と時の経過の中で相互に影響し合い、各自の世界を構築しつつ、統合された世界を共につくりあげるという多重構造を持った多様なコミュニケーションの場である。

『香筵とコミュニケーション ―過去・現在・未来を結ぶ―』上村 代志子

組香の面白さは、必ず和歌や能楽などの古典文学・芸能に因んだテーマによって構成されることにある。

出香(香席の亭主)や、香記(香席の記録)を作成する筆者は、幅広い知識を駆使しながら香木に銘をつけ、和歌詠み、その会にふさわしい世界観をつくり出す。香道の原点はもちろん、その香りを楽しむことにある。が、香りを鑑賞しつつ、イメージの世界の中で自由に遊ぶことで、より一層楽しさが増す。そのためには、古典文学や書道における教養が不可欠なのである。

香席には必ず、会の記録(香記)を書く筆者が存在する。この香記には、組香の名前・参加者一覧・日付・出香した香木の銘・和歌・参加者の回答など、会に関するあらゆる情報が記録され、会の終盤にて成績優秀者にプレゼントされる。香記を手に入れた客の多くは、持ち帰るなりそれを表具屋で表装する。ゲームの記録という実用的なものが、そのまま芸術作品となるのである。

宇治山香|© Hironori Handa

景色の造成(行→地)

茶道や香道といった日本の芸道には、作法・礼法の約束事が多い。

立ち上がる際は、客側ではなく、必ず壁側の方の脚を先に出す。
乱箱(みだればこ)は、畳の目を3つ分手前に動かす。
挨拶時は、扇子を膝前に一文字に置き、自分と相手の間に「結界」をつくり、謙譲の気持ちを表現する。
香炉が回ってきた際は、香りが逃げてしまわぬよう、肘を張りながら着物の袖で「袖屏風」をつくりながら香りを聞く。

これらは、単に覚えてしまえばおしまい、というわけでは決してない。作法があることで、その場に心地よいテンポとリズムが生じ、一人一人が互いに息を合わせていくことができる。明治大学文学部教授の齋藤孝は、以下のように述べている。

「息が合っている」と表現されるのは、各人の動きが一つの全体を構成し、調子よく流れていくように感じられる場合である。全体の流れが乱れることがないためには、各人が他人のテンポを感じ取りつつ、自分のテンポを微調整する技術が要求されるのである。

つまり作法・礼法は、常に空間と時間との対話の中で存在するのである。長い時間をかけ、合理的かつ美的に洗練された作法・礼法の存在があるからこそ、お道具や身体の動きが空間と融合した景色の美しさは、実現しうるのだ。

© Hironori Handa

指先まで神経をいきわたらせた、凛とした点前。
無駄な力が抜けた自然な点前。

その人の性格や考え方、積み重ねてきた経験が、すべてお点前として表現される。またその逆もしかりである。〈行〉を介して表現される美しさは、茶事・香筵といった非日常的な場面にとどまる話ではなく、日常生活における何気ない仕草や振る舞いにまで波及するのである。

合理的・美的に洗練されてできあがったお点前の作法や、道具の見識といった〈行〉は、茶事・香筵という状況において養われ、培われてきた日本人としての物の見方・考え方を見つめなおし、自分自身を表現するための手段なのである。

現代こそ、聞く力が必要

かつての日本には、生活の常識や暮らしの知恵がたくさん存在していた。それは、単に従えばよい規則でもなく、覚えてしまえばおしまいといったものでもない。

それは、人に対する思いやりや謙譲の気持ちを表現し、身の回りの美しさを存分に享受するために、日本人が長い月日をかけて構築してきた羅針盤なのである。これらは、人生を本質的に豊かにしてきたはずなのに、現代においては、わかりやすく即効性のあるものに置き換わりつつある。

私は、このように確実になくなりつつあるものが、日本人が昔から〈聞く〉という態度をもって受けとってきた美しさに、凝縮されていると思う。日本文化の美のメカニズムを理解し、そしてそれらを心で静かに「聞く」ことで、過去の日本人たちが私たちに残してくれた、とてつもなく美しい景色を、現代の私たちも楽しむことができるのではないだろうか。


本記事のすばらしい写真は、カメラマンの半田広徳さまに撮っていただきました。心温まる、美しい写真を、ありがとうございます。


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