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たった1曲の流行歌にも人類の歴史が見える話~マツケンサンバⅡから見る世界、音楽、日本の大衆文化、ある家族の歴史~

J-POPってそもそも何だっけ?

音楽ジャンルの定義なんて考えるだけ無粋であるというのが、私の前提としてあるのだけど、今日は少しそこに触れざるを得ない内容について書きます。

日本人が生まれて死ぬまで無意識に触れ続けることになる”J-POP”というジャンル。皆さんはその定義についてどのように考えているでしょうか。

・日本人がやってたら全部、J-POP。
・日本の芸能事務所、レコード会社から出てるポップスならJ-POP。
・そんなん考えたこともないし考えたくもない!

などいろいろだと思います。

ありとあらゆる現象を日本の現代社会目線で再解釈した商業音楽=J-POP

そもそも音楽とは何なのでしょうか。
これについては様々な見地からいろいろな角度で切り込んでいくことのできる魅力的な問いだと思いますが、一つの見方として
「ありとあらゆる現象を音楽家目線で再解釈した、音に関する創作物」=音楽
ではないかと私は考えています。

ありとあらゆる≪現象≫というとわけがわからないかもしれませんが、難しいことではありません。人々が巻き起こしてきた様々な事件や、事件などとは程遠い日常生活、人が感じるすべてのことをここでは≪現象≫と定義しています。

J-POPの定義は「ありとあらゆる現象を日本の現代社会目線で再解釈した商業音楽」だと私は考えています。

≪現象≫には音楽そのものも含まれます。世界各国の土着的音楽から最新のヒットチャートが含まれるのはもちろん、J-POP以外の日本の音楽(雅楽、各種民族音楽、祭りの音楽...etc)や、昨日までの過去に流行したJ-POPすら、最新のJ-POPにおいては再解釈の対象となっているのです。

パクりという文脈での作品否定は、音楽文化そのものの否定である。

YouTubeなどを見るとよく「この曲はこの曲のパクりだ!」として楽曲を羅列した動画があったり、洋楽好きの人が「J-POPはパクりばっかり」という指摘をしているのを耳にしたりします。

こういった場合、パクりという言葉には侮蔑の意味が込められていたり、日本人として日本の文化を恥じるみたいな意味が込められているように見受けられます。
しかし、私からするとそもそも音楽というのは自己あるいは世界に見出すことのできる現象の再解釈(あるいはコピー)である以上、その一致度合いの大小に関わらず侮蔑も卑下もする必要がありません。

流行が一過性のものについては安易に「パクりだ」と否定的な物言いをされるのに対し、商業的成功を収めたうえ該当のアーティストがレジェンド化していれば「オマージュ」と言い正当化する向きもあるなと思いますが、私の感覚ではパクりもオマージュも等しく許されてしかるべきものです。
世界を引用する際に元ネタへの尊敬の念があるかないかなんて知ったこっちゃない(判別のしようがない)ですし、悪意や善意は見たり判定したりできるものではないですからね。

何かに影響を受けていない音楽なんて現代には存在しません。

作曲者がこの世に生まれてから自発的に音楽をやろうと思い至るまでに「他人の音楽を一切聞いたことがない」という人でないかぎり、何にも影響を受けていない音楽なんて存在しえません。

「影響を受けたこととパクりは異なる」という指摘が聞こえてきそうですが、そこは同じだと私は考えています。なぜなら、現状人は他人の脳内をつぶさに言語化して覗き見ることができないから。作曲者の脳内に影響の痕跡やまるパクりした事実を発見することなんてできないからです。

そして、音楽を作ったことのある人ならわかると思いますが、作曲した楽曲の中の完全にオリジナルだと思っていた要素が、全く他人のつくった曲と似通っているなんてことはざらにあります。それは作曲家が音楽理論を学んだと学んでいないのとに関わらず「音楽理論で作曲された既存の音楽」から、言語化することなく無意識にその法則や、音楽が音楽となるに至るプロセスを学習しているからです。

もっと言うと市販の楽器やDAWを使って作曲したものは、そもそも商業的に発展してきた音律や概念にすべからく乗っかっているようなものですから、自分でピアノの調律をいじっていた大昔の作曲家からすれば全部パクりだと言われてもおかしくありません。
「パクりの定義は著作権法で定義されているものだ」とかいう、繊細さのかけらもない思考停止の議論をしたいのであればそれまでですが。

そして、世界の秘境の地にある島で我々外野が音楽だと定義している音楽が一切聞こえない文化圏において、降って沸いたように音楽を生み出す人がいないとも限りませんが、それってほとんどあり得ないし知りえないものですよね。(個人的にはそういう音楽はあるかもしれないと思うし、ぜひ聴いてみたい。)

音楽にパクりも何もない。いやむしろすべてがパクりで成り立っている。

ここまで話した内容の意味を簡潔に言うと、音楽にパクりはない(逆にむしろすべてパクりの範疇)ということです。なので、私はパクりかどうかという文脈の自称評論家たちによる音楽批評は基本的に聴くに値しないと考えています。至極、当然のことしか言っていないからです。

ただ今回私が話したいのは実はそういうことではありません。


全ての文化には文脈があり、それを知ることでより深く楽しむことができる。

そこに作曲家がいて、作詞家がいて、演者がいれば、当然その人数以上の文脈が1曲の楽曲に存在することは皆さんすぐに想像できると思います。

私がこれを考えるきっかけになったのは松平健さんの「マツケンサンバⅡ」に対するある指摘をTwitterで見かけたことです。

「東京オリンピックの閉会式をマツケンサンバにしてほしかった」という何とも可愛らしいライトな感想があふれる中「でも、マツケンサンバってサンバじゃないし…(笑)」というツイートが散見されました。私はこの方向からの発言に実はわりと違和感があったんです。

「マツケンサンバⅡはサンバではない(笑)」…果たして本当にそうなのか?

誰が言いだしたのかは不明ですが、マツケンサンバⅡは「サンバじゃないのにサンバと言い切っていてJ-POPらしいカオスな感じだよね」と評されているのが思いのほか一般的なようです。みんなそんな風にちゃんとジャンル聞き分けてたの?!とか感心しつつ「ふーん、私にはサンバに聞こえるけどな」と思っていました。

そもそも音楽的にサンバかどうかの判定って皆さんどうやってしているんでしょうか?私の理解ではサンバというのはリズム隊の動きに特徴がある音楽です。マツケンサンバⅡは私の中で(ややラテン音楽に寄っているものの)サンバのリズムは聞こえてくるように思われます。

サンバのリズムの定義の大きな枠として「4分の2であること」があげられると思います。ではマツケンサンバⅡはどうか。聴く限りは4分の2でもおかしくありません。

かの有名なミュージックエイトから出ている吹奏楽アレンジ版の楽譜を見ると表記は4分の4拍子です。その他、各種アレンジ版をいくつか拝見しましたがそのほとんどの表記が4分の4拍子となっています。ふーん(-ω-)

しかし私は釈然としません。作曲者である宮川彬良さんが4分の4だと思っているとは到底思えず、宮川さんが指揮を振っているマツケンサンバⅡの映像をいくつか見ました。

すると宮川さんはどの映像のいつのものを見ても4分の2拍子で指揮を振っています。(というかまぁほとんど踊っています笑)
つまりこの曲は出版されている楽譜上は4分の4拍子かもしれないけど、作曲者のノリ(意思)は4分の2拍子ということになります。
サンバであることの第一関門突破!

もうひとつ、サンバの定義に含まれそうな大きな要素としてはシンコペーションがあると思いますが、これは聴けばわかると思います。この曲、シンコペーションだらけです。

「オレ」や「カルナバル」はスペイン語だからサンバの曲で出てくるのはおかしい?

「オレ」や「カルナバル」はそもそもスペイン語だから、サンバがテーマの楽曲でその単語が出るのはおかしい(けどそんなことはどうでもいいしおもしろいよね)。
という趣旨のことを言っている著名なミュージシャンの方がいるようです。なんでも「サンバはポルトガル語だからスペイン語が混じっているのはおかしい」と。

私はこれについては著名ミュージシャンの言い分を明確に否定してみようと思います。
作詞者である吉峰暁子さん(神戸市立外国語大学卒業、大阪大学文学部卒業)がどの程度まで考えて書いたかなんて私には知る由もないのですが、サンバがテーマの楽曲でスペイン語が出てくることは歴史を見ると全く違和感がなくむしろ正当であるとすら感じるのです。

サンバってもののそもそもの発端を想像してみよう!

ポルトガルがブラジルをディスカバーしたのは1500年のこと。ポルトガルはアフリカ大陸の植民地から奴隷を連れてブラジルに行き、開拓をしていったわけです。その後、ポルトガルはスペインに併合されます。(1580~1640年)

サンバが「これがサンバじゃ!」と確立されたのはそのしばらくあとのようですが、サンバの根底にはこの時代のあたりで生まれたカポエイラとかの音楽的文脈が混じっていると私は感じています。血がつながっている音楽みたいなかんじ。

何が言いたいかというと、確かにサンバはポルトガル語だけど、ブラジルを開拓していたポルトガルは開拓中にスペインに併合されていた時期もあるので、そこで生まれたサンバという異国の文化を現代の日本で解釈してポップソング化するときに「オレ」とか「カルナバル」とかを混ぜた歌詞に昇華するのって全然意図的な可能性あると思うんですよね。

つまり言語の文脈からマツケンサンバを「J-POPらしいわけのわからないもの」として褒めるのはいかがなものかと思うわけです。むしろその複雑さを表現している絶妙な単語選択ともいえる。…作詞者の人がどう考えているかは知らないけど。(笑)

だいたい、そもそもポルトガル語でカルナバルは「カルナヴァウ」なんですけど、それって日本語及び日本の現代社会というフィルターを通してしまった場合カルナバルだろうがカルナヴァウだろうが意味は同じですよね。全くもって無意味な指摘。それどころかこれ「カーニバル」でも音楽としては成り立つけどそうはしてないことに意味があると思いません?(笑)

サンバにボンゴは使わないから歌詞に出てきたらおかしいの?

サンバという音楽の中ではボンゴを使わないにもかかわらず

叩けボンゴ 響けサンバ

という歌詞になるのはおかしいという指摘もあるようです。

なるほど、しかしこれには諸説あるうちの一説を持ち込むとちょっと説明が可能です。
そもそもサンバという音楽をどう分類するかみたいな話になるのですが、この世には2種類の人間がいます。サンバはラテン音楽だという人間と、サンバはラテン音楽じゃないという人間です。(笑)

これもたぶん歴史的背景からどっちにするかで揉める系なんだろうなと何となく想像しているのですが、私はサンバはラテン音楽と同じ水脈を共有しているのではないかなぁと感じています。(理由はブラジル開拓~サンバが生まれるまでの流れから)

ラテン音楽という大項目にサンバを入れると、そこにはマンボやチャチャチャなどのボンゴを使う音楽も含まれる。つまり、遠くはなれた日本から見てみればサンバもマンボもチャチャチャも、音楽をやってみようとか作ってみようとか研究しようとか思っていない聴衆にとっては「ラテン音楽」で、サンバのサウンドの中にボンゴがあっても違和感はないわけです。

だいたい吹奏楽部のパーカッションの子などは、真島俊夫さんのアレンジしたサンバアレンジの「宝島」(T-SQUARE)とか「サンバ・エキスプレス」とかで思いっきりボンゴを叩かされます。
教育レベルでボンゴをサンバに使っているのが日本の現状です。(笑)

世界でどうかは知らないけど、サンバカーニバルでボンゴを叩いていたら「ボンゴなんて叩くんじゃない!」と怒られるみたいなことあるレベルの鬼のルールみたいな感じではない気がする。
そこのところはサンバの専門家に聞きたいでもありますね。

話をやや戻して、冒頭の頃に話した内容に若干かかってきますが、J-POPというのはそもそもありとあらゆる現象を日本の現代社会目線で再解釈した商業音楽なので、マツケンサンバもサンバの再解釈を日本の俳優がやったものに他ならない。そういう意味ではかなり律儀なくらい丁寧な内容になっていると感じます。

日本人が侍の格好でサンバを踊るのは、捉え方次第ではかなり社会的な主張にも見える

ここまで話してきた内容を見ていただくとわかるようにサンバという音楽は「奴隷としてブラジルで扱われていた人たちの中で発生していった音楽」という側面が根底にあります。

そのサンバを、日本人が侍の格好をして歌い踊るのって「歴史的に日本の侍はなんらかの奴隷になっていた」みたいな見方を暗にアピールしている可能性もあるんじゃ…なんてことを思いました。
さすがに深読みしすぎかな(笑)

でもまぁそう思いながら見ると風刺ネタとしてかなりおもしろい。しかもそれが現在いろいろな議論を巻き起こしている東京オリンピックパラリンピック絡みで使われでもしたら一層すごいなと思うんですけど(笑)

それでもマツケンサンバはサンバじゃないという人に"日本のサンバ"と血の通った音楽の話をしよう

日本においてサンバが演奏され始めたのは日本人のジャズミュージシャンがボサノヴァをやり始めたあたりからという見方をする人が多いようです。ボサノヴァは、さらっとさわりだけ説明すると、サンバをシャレオツに進化させたみたいな感じ。(ほんとかよと思った方々は各自調べてください笑)
そのうちのひとりにサックス奏者の渡辺貞夫さんなんかがいらっしゃいます。1933年生まれのレジェンド。

ところでマツケンサンバの作曲者である宮川彬良さんが誰なのかって皆さん知ってます?
私と同世代前後の皆さんに分かりやすく説明するとNHK教育テレビ(当時)の「ゆうがたクインテット」に、人形たちと一緒に唯一人間として出ていたピアノのお兄さんが宮川彬良さんです。そう、金メッシュの愉快なピアニスト役の。

で、ちなみに宮川さんのお父さんである宮川泰さんもかなり著名な作曲家さんで、代表曲はピーナッツの「恋のバカンス」とか「宇宙戦艦ヤマト」とか「ゲバゲバ90分」とか。まさに日本のポップス作曲シーンのパイオニアのような人です。

で、ちょっと1曲だけ再生してみてもらっても良いですか?こちらです。

日本の朝にズームイン!(・ω・)ノ

私は朝にズームインを見ていた時期はないですが、曲を聴くとなぜか朝!って感じがしますね。すごい曲だ。
この曲、宮川泰さんの代表曲のひとつです。

実は私はマツケンサンバを聴くたびに昭和だなとかいう感想よりも「宮川家の音楽だなぁ~」と思うんですよ。聴いたらわかると思うんですけど、宮川彬良さんってマツケンサンバⅡでさらっとお父さんの音楽へのリスペクトをガンガンに出してません?(笑)
私の耳にはそう感じられる。そしてそれってめっちゃエモいなって思うんですよ。いいなって。

ちなみに宮川泰さんは1931年生まれ。前述の渡辺さんは1933年なので同世代ですね。つまり日本におけるサンバの脈略の発端の時代を宮川泰という作曲家はおそらく見ているわけです。そして、さっきお聞きいただいたズームインのテーマ曲、日本におけるサンバの再解釈のひとつとしてあまりにも著名。そして息子である宮川彬良さんが、廻り廻ってお父さんのサンバ曲の影響をひしひし感じられるマツケンサンバⅡを作ってヒットさせている。

一体これのどこが「J-POPってわけわからないけどカオスで面白い」なのか私には訳が分からない(笑)
めっちゃ正統派のエモい話じゃん。

文化や芸術の感想を浅い見地から垂れ流しているやつの評論なんか見るな聴くなという提案

文化や芸術を語る時に必ず現れるのが「それは〇〇の条件を満たしていないから〇〇ではない!」みたいな、発端や原典に忠実にやれタイプの人たちですが、私はこれってそんなに深い意味があると思えません。

そもそもが儀式やその保存目的だったり、オリジナルに忠実であることが至上命題である場合は、そこに指摘が入っても仕方がないなと思うのですが、聴衆を踊らせたり、日々の生活を彩る花として楽しむ目的の文化芸術領域において忠実に再現できていないもの以外は笑い飛ばされてしかるべき、みたいな空気は全然理解ができません。

仮に「マツケンサンバⅡはサンバじゃないけど面白いからよし」という、一見存在を認めているように見える発言でも、その根底に「J-POPってそもそもカオスでわけわかんないものですからね」みたいな卑下が入っていると、いやそれは違うっしょ、って言いたくなります。

これ、聴衆が言ってるならまだしも、仮にもその文化の一端を担っている音楽家が言っているってのがちょっと信じられないというか、まぁ優秀な音楽家が必ずしも文化の面白さを人に伝える解説員になれるわけではないんだなと、いろいろ調べてみて思いました。

否定しつつ肯定するのって、根本的には否定してますから。ちょっと文脈をあまりにも無視しすぎなのはよくない気がする。まぁどこまで掘れば十分なのかって言いだすとキリがないんですけど、そもそも芸術を鑑賞するときに他者による解説はいらないはずなので、受け手が「自分がどう思うか」を軸にして文化や芸術に触れていく風潮に世の中なるといいのになぁ~なんてことを思いました。

というわけでいろいろ踏まえて最後にお聴きください、マツケンサンバⅡ。(笑)


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