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夏目漱石『草枕』と英訳『The Three Cornered World』を読んで。

 あまりにも旅行に行きたすぎて、『草枕』を近所の本屋で購入。で、ネット調べ情報ではAlan Turneyの英語訳が良いらしいので読み比べ。

 山路(やまみち)を登りながら、こう考えた。
 智に働けば角(かど)が立つ。情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ。兎角に人の世は住みにくい。
 住みにくさが高じると、安い所へ引っ越したくなる。どこへ越しても住みにくいと悟ったとき、詩が生まれて、画(え)が出来る。
 人の世を作ったものは神でもなければ、鬼でもない。矢張り向う三軒両隣りにちらちらする唯の人である。唯の人が作った人の世が住みにくいからとて、越す国はあるまい。あれば人でなしの国へ行(ゆ)くばかりだ。人でなしの国は人の世よりも猶(なお)住みにくかろう。・・・・



 不朽の冒頭ですが、しみじみ美しいなぁと。さらっと流れて次のページに芸術の定義というか評価というかそういった抽象概念の話が続くのですが、この「まさに今見えて、存在している現実世界」双方に、視点がゆらゆら行き来している感じがはっきりとことばで切り抜きだされていて、美しい。洗練したことばの運びを操れる人にはこんな風に世界を切り抜きだして、みえている世界のなかで生活をしているのかと思うと羨ましい。

 あとこの、つい音読したくなる文体。音楽みたいな実際に空気を震わせる物理現象の表現方法ではなくて、活字という二次元世界の表現方法から、この音の流れを体感できるなんて!無音世界から物理現象を体験させるだなんて!っていう、主人公の心のうちや旅の途中のできごととか物語展開を追う楽しみだけじゃなくて、このモノを語る音のうつくしさも楽しめるという、小説を読む楽しみを最近知りました。

●英語翻訳版を読んで気づいたことばの奥行と行間

 現代のしゃべり言葉をあたりまえに使う20世紀末生まれ21世紀人が、この半分文語みたいな日本語で読むからこの『草枕』がおもしろいのかと。ことばを通じて時代を遡り、フィクションの世界に重層性ができるのが楽しいのであって、日本語母語のわたしにとって英語版は、原著から想像するフィクションの世界とかなり違うフィクションの世界ができあがってしまってて、結果的に不思議なパラレル世界を比べてみたみたいな状況になりました。

 だって例えば9章の宿の女性と主人公の会話、全然大したことしゃべってなくてとにかく他愛もなさすぎる会話で。まさにここでも「外国語の小説、日本語訳版で読むの?(原書じゃなくて)」という話から主人公の「そういえば観海寺の寺に変なお坊さんに会って云々」という話題に続いてこういう会話が展開されるんですけど

「それから、もう一人若い人に逢いましたよ。……」
「久一でしょう」
「ええ久一君です」
「よく御存じです事」
「なに久一君だけ知ってるんです。その外には何も知りゃしません。口を聞くのが嫌いな人ですね」
「なに、遠慮しているんです。まだ小供(こども)ですから……」
「小供って、あなたと同じ位じゃありませんか」
「ホホホホそうですか。あれは私(わたく)しの従弟ですが、今度戦地へ行(い)くので、暇乞に来たのです」

この2人の会話の訳が

'I met a young man too.'
'I expect that was Kyuichi.'
'Yes, that's right.'
'You seem to know him very well.'
'No, I don't know anything about him except his name. He's a rather taciturn person, isn't he?'
'No, he's just shy. He's still only a boy.'
'A boy? He must be as old as you.'
'Ha, ha, ha, ha. Do you think so? ―He's my cousin you know. He just came to say good-bye because he's off to the front. '

 「”暇乞い”が”say good-bye”と解釈されるのか、なるほど確かに!」と、ことばのどういった意味合いや性質が抽出されているかを知ったり、一方で「暇乞い」に別れ以外にもは謙譲表現に近いニュアンスも感じとっているにもかかわらず、その要素がここではそがれている(ように私が感じている)からかとか。きっと他の言語にもこういうことばの奥行が無限にあるのだから、多様性の理解を完璧にやりきって死ねる人はこの世に存在しないんだろうなぁと。

 「口を聞くのが嫌いな人ですね」という肯定文に限りなく近い文章を、これが小説のなかの登場人物のしゃべりことばであってかつ、主人公があんまり久一君を知らないという前提を踏まえたうえで、こうした行間を読みこんだ英訳が結果的に「isn't he?」という付加疑問形式で文章を終わらせるという訳者の愛と知性に驚きながら、「あぁこれが「会話の空気を読む」「行間を読む」ときに無意識に実践していることか」と、ことばの実践についてちょっと考えさせられました。

 女性の「ホホホホそうですか」が口をすぼめておすましさんみたいな感じで静かに笑う女性をイメージするのに対して、英訳の「Ha, ha, ha, ha. Do you think so?」は口を大きくあけて笑っているイメージで、続くDo you think so?までが超アメリカンな表情と身振りでしゃべっている女性が浮かぶから、翻訳のこういうパラレルイメージワールドはモロに「そのエリアの文化っぽいモノ」が突然ひょっこりあらわれたりするからおもしろい。

 英語も読むのに辞書がいるし、原作の方も後ろの注釈を参照しないとわからないことばが多くてけっこう注釈と行き来しながら読んだので、21世紀社会の日本語をしゃべる身としてはこういうのをゆっくり読む時間がもっととれたらいいのになぁー仕事は好きだけど週3くらいになったらなー。

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