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アリババ珈琲店【X版】②新客はあの人

②《新客はあの人》
翔子はピンク色の薔薇模様の珈琲カップを宙に浮かせたまま、驚いた猫のように目を見開いていた。新客は、知名度の高い俳優Xだった。ミーハーではない翔子だが、知性的で洗練されながら同時に野生的な香りをも漂わせるXを目の前にして、一種の高揚を覚えていた。
「いらっしゃいませ。こちらのメニューです。本日のコーヒーは、パナマ産ゲイシャと言って、ジャスミンの香りのする爽やかな逸品ですわ。」
「それでお願いします。」
「あら、即決ですわね。」
芽衣がマスターのいれた珈琲を運んできた。上品なメイド服は老舗珈琲店さながらで、芽衣が例の一瞬で相手のすべてを包み込むような微笑みを伴っていたのはいうまでもない。テーブルに丁寧に置かれた珈琲カップは華奢な作りをしていて、スズランの花の形のカップは鮮やかな空色の細線で縁どられていた。
 爽やかな香がした。香りは脳の奥からあたりにひろがり恍惚を呼び起こした。生気を失った青白い青年の目の奥に、瞬息で幾分か赤々とした生命の火がともった。
「ありがとうございます。」
青年は爽やかな花のような香りの珈琲を口に運んだ。随分と精気が戻ったXではあったが、漠とした不安と現状把握がままならないことへの不可解さが混ざった表情に変わりはなかった。芽衣は包むような柔らかい口調で言った。
「そんな晴れないお顔をなさって、笑顔がお似合いですわ。どうぞ珈琲でひと息おつきになって、気を緩めて下さいな。Xさん。」
青年は、X。かの有名な俳優だ。誰もが口をそろえて一流だと言うだろう。普段、ドラマは勿論、テレビでさえも大して興味のない翔子が認知したぐらいだ。数年前は、その若々しい美しさで多くのファンをうならせ、「神々しいまでの美しさ」と、ファンを魅了した。そして今大人の魅力も加わったXがここにいる。近年はミュージカルなどで歌唱力やリズム感を披露し、俳優としての実力の幅を広げていた。
 翔子は珈琲カップを未だ宙に浮かばせたまま言った。
「そ、そうよ、そんな若いのに暗い顔していたらもったいないわよ。若い時は二度とこないんだから。」
いつもは大人の落ち着いた翔子の声が、キーが外れたように甲高くなっていた。リアルなXを目前に依然高揚が続いていたのだ。
「まぁ、若さってものは失われて初めてその美しさに気が付くってものね。」
「僕はそんなにもう若くはありませんよ。」
青年の話ぶりは訥々としていた。翔子は宙で停止していたカップをやっと動かしテーブルに置いた。
「アラサーでしょ?十分若いわ。ま、アラフォーも若い・・、わよね。人生100年の時代なんだから。これからの子たちは120年、それ以上って話もあるわよね。」
マスターは悦の表情を翔子に向けた。
「ほぉ、翔子さん、認識が随分と変わったようですなぁ。ここアリババにやってきた当初はもう年よ、先などいらないしそんなものないわ、とまぁ散々後ろ向きな発言でしたがなぁ。ははは。いやぁ、嬉しいですなぁ、一人が変われば、その周囲の10人が変わる。それでその周囲の100人も変わって行く。ははは。いいですなぁ、いいですなぁ。アラフォーは十分にお若い。そもそも若さは心次第。有限の時間はまだたっぷりとありますな。」
翔子は肘をテーブルにつき、顎を右手の指先に軽くのせた。
「散々、まだ若いってマスターや芽衣さんが言うから。いい洗脳よね。そうねぇ、歳だって嘆いても嘆きからじゃいいこと始まらないわ。嘆いてても希望をもっても同じように時間はすぎるわね。」
メイドの芽衣は、ただでさえ普段から笑みがこぼれそうなところにさらに笑みを浮かべると、例の勉強中の科学の知識とやらを話した。
「脳の神経細胞は、歳に関係なく新しく作ることができますわ。脳細胞は、年齢とともに大幅に減少していくって俗説があったようですけれど、実際は年齢に関係なく鍛え方次第で増えていくそうですわ。BDNFという、脳由来神経栄養因子が関わっていますの。これは、脳内ですと、記憶を司る海馬に多く発現し、血液中にもありますわ。このBDNFは、神経細胞の発生や成長・維持、それから再生を促進するタンパク質で、脳の神経細胞を増やす、シナプスの形成を促す、その結果、記憶力や学習能力を向上させてくれますの。『脳の栄養』なんていわれることもありますわ。
つまりは、脳神経は加齢やストレスで壊れてしまっても、この脳の栄養因子のおかげで新しく発生しますし、それから成長しますの。
すごいことですわ。」
芽衣は興奮気味だ。芽衣は人体、それから生命の神秘に魅了されている。新しい科学的知見が発表されたと知ると、好んで文献を手にし、また医学書や遺伝学それから心理学などの本を傍らに置くのだ。芽衣は続けた。
「それには勿論、運動、それから適切な食事の日常の努力が要るのは言うまでもないですわね。お食事ですと、カマンベールのオレアミドという神経炎症制御因子が脳内のBDNFを増加させたそうですわ。これは、マウス実験ではなく、人での研究で明らかになったことですの。例えば、高カカオのチョコレートもなども脳活性化にいいと実験で明らかになっているようですけれど、それは動脈硬化を防いだり、脳内の血流を増やしたりするからですの。直接的にBDNFが増えることが明らかにされたのは、カマンベールですわ。
うふふ。ワインのおともにいかがかしら。」
「へぇ。そうなの?運動はどういうのがいいの?」
翔子が質問した。
「筋肉トレーニングがいいというのは、最近の定説ですわね。それから、毎日の運動ですわ。できれば楽しく毎日続けることで、BDNFが増えて記憶力や集中力それから発想力が向上して、わたしたちの人生をより実りのあるものにするために、創造性を大いに発揮できますわ。
わたくしは、これは大きな希望だと思いましたわ。思えば、そうですわよね。年齢を重ねても精力的に活動・活躍されている方がいる一方で、木の葉が秋に散るように生命力まで枯れ果ててしまわれる方もいますわ。その分水嶺にあるものは、日々の小さな努力の積み重ね。そして、根底にあるものは、・・・・」
「知識ですな。知っているか、知らないか、それがそ雲泥の差を生むことがあるものです。もそも、脳神経が増えるとは思っておらず、年齢だからと諦めてしまっている人も未だおりますからな。」
マスターだ。
「そうですわね、マスター。マスターの思想の真髄ですわね。真髄ではなくて、はじまりかしら?いずれにせよ、世の中更新されていない古い科学の知識や偽科学でふり回されている人、けっこう多いですわね。」
芽衣に皮肉のような含みはなかったが、翔子は相変わらずニヒルな調子で言った。
「兎に角、歳だから、これは言い訳ってことね。見た目は風化に晒されても中身は自分次第。運動ね、運動。それから、ワイン。あら、違うわ。カマンベールね。」
「翔子さんったら。」
芽衣は穏やかな表情に戻って話をつづけた。
「本当に、希望ですわね。年齢を重ねると、自身の変わりゆく容姿を受容さえできれば、内面世界をいよいよ楽しめるのですわ。むしろ、自らの美醜への期待やら若さの維持の攻防から距離を置いて、内面に展開される世界を堪能することも可能なのですわ。これは、人生100年時代の長い人生を生きる希望にもなることですけれど、人は年を重ねるほど幸福度がますそうですわ。勿論、すべての人にあてはまるわけではありませんけれど、これからたくさんの時間が目前にある若い方々には希望のある報告ではないかしら。人生を楽しむことは、年齢に関係がありませんわね。」
翔子はXの方を向くと、声のトーンを下げてより一層柔らかく話した。
「それと、悩みの深さも年齢とは関係ありませんわ。よかったら、お話してくださいな。話すことは、悩みを放すこと、なぁんていうかはさておき、わたしたちでよければお伺いしますわ~✧♡」
マスターは喉の奥から声を出すように言った。
「悩み解決の一番の方法は、徹底して向き合うことではないですかな。手放せて済むんでしたらそれはそれで結構ですが、大抵はまた同じような悩みが出てくるものではないですかな。ですから、いっそのこと一度徹底して向き合う。どうして悩むのか、その原因はなにか、悩まない状態はどういうものか、そのためにはどうしたらいいのか、考えるんですなぁ。かといって、根詰めて考えたところで、あんまりにも問題に埋没していますと、なかなか解決方法が見えてこないもんですな。その問題がもたらす感情的な部分ばかりに意識がいきがちですからなぁ。人間ってのはそんな風ないきものです。それで、話すということで、脱中心化を計れることもあるもんです。つまり、自分の体験から少し距離を置いてみる事ができるんですな。まぁ、悩みのこたえってのはすぐに見つかることばかりでもないですな。」
「そりゃぁ、”悩み”ですものね。それでも、悩みの解決も問題解決力と同じで技術として身に付けていけるものだと思いますわ。」
沈んだ顔に漫然とした様子が加わったXの視線は、手中の可憐なスズランの珈琲カップにあった。芽衣は待っていたが、Xに発言を促すような圧力は伴っていなかった。沈黙をひとつの会話として受け止めていたのだ。Xは、寡黙を続けた。
「こんなにイケメンで第一線で活躍できて、悩みってあるのかしら。」
沈黙を破った翔子に続いて、カウンター内のマスターがXに気持ちを寄せるように言った。
「どんなイケメンでもありますよ。人である限り、どんな徳のある人でも賢い人でも悩みはあるもんです。お釈迦様でもあったんじゃないですかな。ただし、あそこまで悟っておられちゃぁ、瞬くまに解決、するんでしょうなぁ。わたしはまだまだ到底及ばないんで、悩みってもの分かりますなぁ。せっかく生きているのだから、何かを貫こうと思えば、必ず壁にぶち当たるし、障害を避けたと思えばどつぼってことはまぁしょっちゅうですよ。言っておきますがぁ、わたしなんて、この珈琲店に落ち着くまでそれこそ、落ちた悩みの穴から抜け出せないことはしょっちゅうでしたなぁ。ははは。生きているとかならず出てくる悩みみたいなのは、感受性が高く繊細であればあるほど、その痛みは大きいもんです。挑戦の数だけ、悩みも増えるもんです。ははは。まぁ、そうやって人ってものは成長していくものなんだとは思いますけどねぇ。」
「X君は、感受性が高そうですわね。」
芽衣の言葉に、翔子が反応した。
「そりゃぁ、俳優さんでしょう?そんじょそこらの鋭敏さとは抜きんでていないと鋭敏さがないと、いい演技、できないんじゃないかしら。」
珈琲カップを顔から遠ざけたXの口元に微笑みが見られた。
「X君はどうかはわかりませんが、アリババにやってきた人のほぼ100%といっていいぐらいの高い確率で、共通することがあるんですよ。」
マスターは注ぎ口が白鳥の首のように細くて彎曲したやかんを手にしたまま、穏やかだが悲しみが含まれた表情になり言葉を続けた。
「なにがしか完璧主義だったり、意識無意識に関わらず自分を責めたり嫌ったり、自己批判が多くて、ありのままの自分を十分に受け入れられていないのですな。それから、前向きに生きる力を自分に与え続けるにはどうしたらいいのか、唯一無二世界にたったひとりの自分自身の取り扱い方のような、現代を生き抜いていけるために必要な己だけのことをよくは知っておらんのですなぁ。」
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これは7月に他界された俳優さんをモデルとした人物が登場する作品です。
人の生死を扱った作品ですので、よろしければ①も見ていただけると嬉しく思います(''◇'')ゞ
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