【書籍化小説】顔のない顔(プロローグ)
その日は午後から雨が降った。四月、何かが終わり、そして始まっていく不安と希望をにおわせ歩く人々を、雨は包み込んで静かに湿らせる。
顔をのぞかせていた太陽は、てっぺんに昇りきる前、雲に隠れ姿を消した。灰色に染まる世界、再び光が差し込むのを待っているようだった。
午前十時少し前、僕は家を出た。講義は昼からだから、それまで時間がある。
僕は近くの停留所から池袋行きのバスを待つ。前にはマスクをつけた女性が一人立っていた。花粉症なのかしきりに鼻をすすっている。彼女はまるで世界すべての不幸を一人背負っているかのような目をスマートフォンに落としていた。と思うと素早く親指を動かし、一連の流れが終わると大きなため息をついた。そして思い出したように鼻をすする。
気配を察知し、女性は僕に視線を投げた。心臓が委縮し、僕は慌てて目を逸らす。
予定より数分遅れでバスはやってきた。
平日でも車内は混み合っている。僕は吊革につかまり、体があちこち流れるのに耐えていた。迫りくる怪物から逃げるよう、バスは強引に車の間を縫っていく。クラクションがイヤホンを突き抜いて鼓膜に刺さり、肩がすっと縮む。バスの停留所に陣取ったバイクがのろのろと走り出した。運転手の不愉快そうな眉がミラー越しに見えた。
吊革につかまる僕の眼前の座席、老人がうずくまるように座っている。まぶたを重力に従わせ、緩やかに胸を膨らまし、元に戻る。どこにも陰りがないその表情。窓の外からこぼれた光で白くぼんやりと輝いている。まるでどこにたどり着くのかも知らず、バスの中で死を待っているようだった。
周りの乗客はみな無表情で、各々がスマホや文庫本、窓の向こうの遠い世界を眺めていた。僕たちはこの小さな箱に閉じ込められ、袖触れ合うほどの距離感のまま目的地を待つ。しかし互いに無関係で、無関心だ。バスの中には静かな秩序が存在している。この空間はどの世界にも干渉しない人生の狭間みたいだ。
僕はほんのわずかなこの時間が何となく好きだった。
「・・・・・・・・・」
しかしその秩序はもろく、たった一つの接触で簡単に壊れてしまう。
人間の声が聞こえる。僕は音楽の音量を上げた。しかしその波を軽々乗り越え、よりはっきりと声は響く。
「静かにしてくれませんか」
座席の後方、四十代くらいの男性が立ち上がって誰かに投げかけた。
ぎこちない注意をもみ消す、女性の話し声が聞こえてきた。一番後ろに座っている女性がスマホを耳に押し当て、誰かと通話しているようだ。
乗客たちは打ち破られた沈黙に気付き始め、たちまち表情に人間らしさを戻した。目を細め、ぽつぽつと犯人に視線を向ける。そこには苛立ちや不安が見て取れた。
たぶん、女が大声で話していることそのものが迷惑なのではない。秩序を逸脱する者、秩序から追い出す者、そして壊れた秩序におびえる自分たち。そんな関係性がたちまち発生し、無関係であるはずの自分に役割が与えられてしまったことを苦痛に感じているのだ。
乗客は表情という仮面によって役割を演じる。彼らはため息をつき、仮面を素早く装着した。面倒を塗りたくり、これ見よがしに。
女性はこの空間で「異物」として表情を向けられたことを察知したのか、徐々に小声になっていった。よく見ると彼女は僕と同じ乗り場から乗車した、あの花粉症患者だった。
しかし女はしぶとい。会話の相手が百日ぶりに雨をもたらす救世主かのように、通話そのものをやめようとはしない。離れたところから繰り返し注意する男性は悪態をつき、乗客をかき分けて女に近づこうとしている。スマホを取り上げるつもりだろうか。
ああ、やっかいごとは勘弁してくれと、男性にも敵意の目が注がれだした矢先、ミラー越しに観察していた運転手が、機械のような声で「車内での通話はお控えください」と呼びかけた。さすがに居心地が悪くなったのか、女性はちょうど停車したバス停でそそくさと降りて行った。相変わらず不幸そうな表情を浮かべていた。男は勝ち誇ったように目を見開きその様子を眺めていた。
そうして再び乗客たちは表情から人間らしさを消し、自分たちの孤独な世界に戻っていった。一人、僕の前の老人だけは終始眠ったままだった。
終点の池袋に到着し、人々は疲れた様子で降りて行った。眠っていたはずの老人は、ドアが開くのを待ちかねていたのか、ネズミのような速さで雑踏の中に消えていった。
煙草の混じった春のにおいが車内に流れてきた。僕は逃げるように目当ての書店へと向かう。
池袋にはよく本を買いに来る。
一年と少し前、大学に通うために上京し、一人暮らしを始めた。最寄駅から十五分ほど歩いた古いアパートを借りた。不満と言えば自宅近くに本屋がないことくらいだ。それ以外は特に可もなく不可もない生活だった。
サラリーマン、学生、外国人観光客、高齢者、ホームレス。東京は様々な人間であふれている。顔、顔、顔の群れ、顔の氾濫。僕はいつもめまいがする。
耳をふさぐイヤホン、音量を上げる。頭の中に歪んだギターの音が響く。それでも通行人を消し去ってはくれない。おびただしい表情。蜘蛛のような目。一つ一つが監視カメラのよう。僕は下を向いて歩く。
うごめく群れに窒息しそうな僕を、駅ビル上空でふんぞり返る巨大な電光掲示板が見ていた。モニターの女性が笑って何かを語りかけている。
文庫本を何冊か買って、僕はそそくさと池袋を後にした。
「・・・・・・・・・」女は言葉を繰り返す。
再びバスに乗り込み、僕は自宅近くの飛鳥山公園に立ち寄った。買った文庫を読んで、講義まで時間をつぶす予定だ。
冷たい風が鼻の奥を流れる。淡く春を照らしていた太陽は雲に隠れている。たまに思い出したように隙間から姿を現す。雲は少しずつ厚さを増している。
朝のニュース番組のアナウンサーの声、昼から小雨が降る予報だったっけ。大学に行くまではなんとかもってくれればいい。雨が降ると途端にやる気がそがれてしまう。まだ四月なのにさっそく講義をさぼるわけにはいかない。
飛鳥山公園は都内の桜の名所の一つだ。桜の並木があちこちにあり、箱庭の中にいるような気分になる。満開時には多くの人が訪れる。遊具や噴水広場、いくつかの博物館もある。
昨年の三月、地元の仙台から一人越してきた時にこの公園で桜を見た。
東京の桜は窮屈だと思った。ひしめく住宅街とむせるような生活の空気、その隙間に無理やり詰め込んだような公園と桜。そこに押し寄せるたくさんの人たち。桜よりもその人の多さに驚いた。外国人、特にアジア人が桜を見物しているのも新鮮で、まるで自分が異国の地を歩いている気分になった。
僕はここで生きていけるのだろうかと、桜を見ながら不安に駆られた。
四月も半分ほど過ぎ、桃色の花弁は昼間の線香花火のように頼りない。桜が散り、木々は疲れたようにゆっくり風に吹かれる。昼前の公園は、普段から散歩として利用しているらしい高齢者がちらほらと見受けられるだけで、時間が止まったように静かだった。僕はゆったりとした足取りでその中を歩く。
花粉がそこらじゅうを漂う季節ということもあり、マスクをつけて歩いている人が多かった。マスクの人間はすべて同じに見える。
目だけを露出した老人が僕の横を過ぎ去る。その顔からは何も見えない。崩落した洞窟のように、入口の閉ざされた顔。その目はただの飾りで、表情としての機能は破棄されている。
僕はマスクの人間に安心感を覚える。すべての人間がマスクをつけて外出すればいいのに、とさえ思う。だからはこの季節は好きだ。
公園内のカフェで僕は頬杖をつく。
小さな店の中には客がほとんどいなかった。薄暗く静かな雰囲気に不釣り合いなバンドの曲が流れている。かき消されそうなろうそくの火のように、僕の奥の席に座る学生風のカップルが何かを囁き合っていた。男は相手の指先をくすぐるように触り、女はいたずらっぽく笑ってみせる。男の表情はこの角度からはわからない。
僕はコーヒーを口に運び、先ほど買った文庫本を開いた。
ぱらぱらと店の窓をたたく音が聞こえる。ため息をついた。顔を上げて外を見ると雨が降っていた。ふてぶてしく雲は一面に横たわり、太陽は完全にその姿を消していた。
「うわ、雨降ってきた」
「ほんとだ。サイアク」
カップルが文句を言っている。女は大げさに眉を傾け、もう二度と雨がやまないと確信しているような表情。しかしそれでもかまわないという様子を男に向けていた。僕は目を逸らす。他人の敷地に入り込む泥棒のような気分になり、嫌悪が胸の奥を泳いだ。
僕は頭を振り、再び窓の外を眺める。雨は激しさを増し、本降りになっていた。桜並木を歩く人の姿はない。すでに葉桜になり存在を忘れられた木々は、何も言わずその雨粒に耐えているように見える。
講義までにまだ時間はある。僕はもう少し雨脚が落ち着くのを待つことにした。
文庫のページをめくる。
―主人公は愛する人の失踪に気付き、途方に暮れている。静かな部屋に鳴り響く電話のベル。彼はそっと受話器に手をかける……
瞬間、目の前は真っ白になった。そして地響きのような音が鳴る。僕は驚いて現実世界に引き戻された。
雷だ。雨はやむどころかさらに強さを増し、はしゃぐ子どものように窓を叩く。春の雷。春特有の眠気を焼き切るように空は発光し、何度も音が響く。ああ、今日はついてない。
いつの間にかあのカップルはいなくなっていた。僕以外に客はおらず、暇そうな店員が外の春雷を気だるげに眺めていた。
時計を見る。もう行かないと。
でっぷり太った雲はすべてを洗い流さんとする勢いを緩めない。さらわれて排水溝に消えていく自分を想像し、席を立つ。
ふと窓の向こうを横切る何かが見えた。いや、気がしただけかもしれない。黒くて大きなカラス。そう見えなくもなかった。
「雷に打たれないように。よい一日を」
釣銭を渡す店員はにやけている。僕は目を逸らし立ち去った。
これからどうしたらよい一日になるのか教えてほしかった。
公園の中で僕は幽霊を見た。嵐の中、白昼堂々それは歩いていた。傘はない。いや、幽霊なのだから必要ないだろう。僕は気が動転している。
公園の坂道を駆けていく雨水。花びらが沈みかけた船のように滑っていく。流れつく果て、坂の終わりにうつろう幽霊。傘を握る僕の手は震えている。
それは僕と同い年くらいの女性だった。幽霊ではなくて僕はほっとした。
雷雨の中、両の手を黒いジーンズのポケットにつっこんでいる。彼女は向こうから僕のほうに歩いてくる。学生のようにも見える。雨に浸かったロングヘアが真っ白な頬に張り付いていた。開いた黒い瞳は、機械のようにじっと斜め下の地面に固定されていた。閉じられた唇は青白い。細く通った鼻筋が、硝子細工のようにその顔を一点に集約していた。
雨の音が彼女の存在をかき消してしまいそうだった。彼女は無表情のままで歩き続ける。雨なんて降っていないと、こちらが錯覚してしまうほどに。
「あの」
真横を彼女が通り過ぎる直前、僕は思わず声をかけてしまった。可哀そうとでも思ったのだろうか。女は立ち止まって、顔だけをこちらに向けた。背は百七十センチの僕とさほど変わらない。ジーンズとパーカーという簡素な姿は、雨を含んだ濃い黒で深海の底を思わせた。両手はポケットに収められている。彼女はフクロウのように僕の目をのぞき込んだ。
「何でしょうか」
人工的で、抑揚のない声。僕はひるんでしまう。
「傘、持ってないの?」
と僕は自分の持っていた傘を差しだした。冷たいまなざしに、魂をひったくられたような気分だった。
しばらく僕の目に視線を固定した後、幽霊のような女は傘を無視して体を元の向きに戻し、そのまま同じ速度で歩き去った。傘を出して静止していた僕の体は瞬く間に冷えて重くなる。それも気にせず彼女のほうに顔を向けた。公園の高台へと続く階段を上るところだった。視界が雷で白くなり、何も見えなくなる。瞬間、女は魔法のように消えていた。
僕は今起きた数秒間を頭の中で繰り返した。彼女の冷たい瞳に見つめられた瞬間が訪れるたび、心臓をつかまれるような苦しさを感じた。
空が光って視界が再び白く濁る。そして遠くで春の雷の音が聞こえた。
つづく
『顔のない顔』、文芸社さんより長編小説として今年10月に出版しました。初めての長編小説です。この続きはぜひ書籍を手に取って読んでいただけると嬉しいです。
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