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潮干狩りでついていきたくなる人

 潮干狩りは子どものころの記憶しかない。大人になってみると、手間がかかる部分のみフォーカスするくせがつき、一向に重い腰が上がらない。用具の準備、家族全員分の着替え、日焼け止め、水分補給、渋滞になった場合の暇つぶしとおやつ、帰宅してからの砂吐き、料理、片付けにいたるまで、まさに朝から晩までフル回転の家族イベントである。

 私が潮干狩りに行ったのは、そんな大人たちの苦労をよそに、美味しいところだけ享受する特権を与えられた子ども時代だ。ある夏の日、私は千葉に住むいとこたちと一緒に、シャベルやバケツを持って、意気揚々と砂浜に飛び出した。イメージトレーニングはばっちりだ。根拠はないが、私ならたくさんとれる!と確信していた。

 ところが、期待とはうらはらに、掘っても掘っても貝がない。時間帯のせいか、掘る場所が違うのか。アサリなんて、海に行けばどこにでもあると思っていたのに、そんなに甘いものではないと、ここで初めて悟るのである。ヤンキー座りも疲れてきて、次第に興味関心が薄れていく子どもたち。

 そこへ「ほれ、けいちゃん」神の声がしたと思ったら、私の子ども用バケツにアサリが2,3個投げ込まれた。声の主は、親戚のおじさんだった。おじさんは、もくもくと熊手を動かし、深く掘っては数個の貝を掘り当てる。それを、私たち姉妹のバケツに順に入れてくれるのだ。

 私たちは喜んで、おじさんの後ろをカルガモの子のようについていった。とにかく、ついていくだけで貝がゲットできるのである。こんなに楽しい潮干狩りがあるだろうか。私の父やいとこたちは、自分のバケツを満たすことに夢中で、カルガモ親子には目もくれない。荷物番をしていた母と親戚のおばさんが、そんな私たちを見て大笑いしていた。

 掘り続けなければ、貝は見つからない。頑張らなければ、欲しいものは手に入らない。だけど、小さかった私にとって、あの時楽しいと心から思えたのは、おじさんが掘り当てたアサリをせっせとバケツに入れていく作業だった。おじさんは、苦労して何かを得る達成感より、自分のために採ってくれたアサリを受け取る喜びを教えてくれた。バケツの重みとともに、カルガモ親子には運命共同体のような連帯感が生まれていく。1人ぼっちでやる必要はない。正しさより楽しさ。言葉ではなく前を行く背中がそう言っているように思えた。
 私が今でも受け取り上手で「何があっても1人だけ生き残りそう」と言われるのは、あの時のアサリのおかげ・・・かもしれない。


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