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『春と私の小さな宇宙』 その3

※ジャンル別不能の不思議な物語です。少し暗め。
※一人称と神視点が交互に切り替わります。
以上が大丈夫な方だけ閲読ください。
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第一章


一月初旬。

薄暗く曇った空が灰色に染まっている。
去年の冬は雪が降らなかったものの寒気が停滞し、肌を突き刺すような風が吹いていた。

冬休みが終わり、厳しくなってきた寒さのせいで、大学構内に出ようとする者はほとんどいなかった。 冬枯れした桜の木々に小鳥が止まっている程度である。昼の校内はとても静かだった。

講義を終えたハルは外に出て指を組み、肩を伸ばした。凝り固まった筋肉がほぐれる。 静かに吐いた息が外気に当たり、冷たく白く染まった。

どの講義も退屈でつまらないものだった。単位のため、仕方なく受講しているがはっきり言って時間の無駄であった。

真剣に話を聞き、ノートをとっている者はどういうつもりなのか。その程度の講義に出 ても意味など無いというのに。一般人はこんな簡単な物事に一生をかけて理解していくのだろうか。

愚劣の極みだ。残念なことに人は自分のように知能も要領も悪い。それが何とも救いようがない。

そう思いながら、ハルは研究所に向かう。

講義を行ったA棟から割合に離れたD棟が、自身の使用する研究所となっている。研究所がB棟なら移動時間を短縮できるのに。いつもそう思いながら早歩きで歩く。

時間が惜しい。あんな一般人どもとは時間の価値が違う。私に流れる時間は一秒でも世界の財産になりうる。

ハルの白い足は静かに、且つ、均等な歩幅で目的地へと速度を上げた。 いままで『難しい』と思ったことがほとんどない。

ハルは生まれながらに特殊だった。
母親の腹の中にいた頃からすでに物心がついていた。 外の音を聞き、言葉を学習した。それにより産まれた瞬間から、自分を取り上げた助産師が発する言葉で、股を広げて横たわっている女が母親だとすぐ認識できた。

0歳のハルは文字というものに注目した。それも言葉の一種らしかった。言葉は聞くことも見ることもできると知った。

すでに聞く方の言葉はほぼ理解していたため、文字を覚えるのにそう時間はかからなかった。

身体を動かしてみた。ハルは自分自身に目を向ける。手を握ろうと思ったら、五本の指は折り曲がって掌におさまった。開こうと思えば指がおさまっていた掌から離れ、放射状に広がった。立とうと思ったら、足が動きだして容易く直立できた。

一歳になったハルはすでに大人と同等の知能を持っていた。誰が何を言っているのか理解できた。

さらに、一度覚えたものは絶対に忘れなかった。見たり聞いたり感じたり、五感全ての感覚を好きな時に思い出せる。常にビデオが回っている状態で、覚える気がなくとも脳が勝手に録画していた。

例えば、公園で遊んでいる子供を見るとする。子供の動作一つ一つを正確に記録し、手や足の動きを覚える。だが、子供の背後にいる蝶の羽ばたきや視界の端にある木の葉の揺れすらも一緒に覚えてしまうのだ。

意識しなくても本人の意思にかかわらず、勝手に記憶してしまう。それは映像だけにとどまらず、聴覚、味覚、触覚に至るまで記憶した。映像 記憶能力というよりは体感記憶能力と言った方が正しいだろう。 ハルの異常な記憶力はその能力のおかげだった。

彼女にとって忘れるという概念が最初から存在しなかった。家から見える風景も、テレビの内容も、時々、母親が疎ましい目で こちらを見ていたことも忘れることはなかった。

二歳になると、日本語に飽きて外国の言葉を覚えた。英語から始まり、中国語、韓国語、 ロシア語、フランス語、スペイン語、ポルトガル語、ドイツ語、アラビア語……、

覚えられる言語に際限はなかった。大抵の言語は二週間程で習得した。

三歳を迎えるころには代表的な外国語を読み書きできるようになっていた。当然、しゃべれることは言うまでもない。

たった三年でハルの家庭は荒れに荒れていた。最初こそ生まれながらに天才だったハルを両親は喜んでいたが、徐々に、異様なほど物事を覚えていく彼女に恐れを抱いていった。

これは人間ではない。

母親はとんでもないものを産んでしまった後悔に苛まれた。育児をしていても子供とは思えなかった。意識のはっきりした大人と暮らしているようだった。

気が狂いそうになる。父親も彼女を持て余していた。時が経つにつれて凄まじいスピードで成長していく。プライドの高い父親は耐えられなかった。すでに自分を超えている。こんな生まれたての子供に。両親は、異質な我が子を愛することができなかった。

これは神の子か、悪魔の子か。

ハルの存在は瞬く間に世間へ広がった。ある機関の学者たちが徹底的に彼女を調べた。その結果、驚くべき事実が次々に判明した。

彼女は、通常、 二重螺旋になっているDNAが三重螺旋になっていた。DNAとは生命の設計図である。そこに新たな設計図が加わるとより完璧な存在になる。病気に侵されず、長い寿命をもっていることが分かった。

そのせいなのか彼女は記憶したものを忘れることがなく、思った通りに身体を動かせた。 それにより、一度見ればスポーツや演奏、料理など多岐にわたって動作を瞬時に真似することができた。人により違うが、彼女の場合、あらゆる物事を記憶、理解して考える能力がずば抜けているようだった。

さらに、知能が極めて高く、IQ二〇〇は下らないという結果が出た。 学者たちはこれを突然変異だと結論付けた。

極まれに三重螺旋状の遺伝子を持った子供が生まれてくることが、世界各地で報告されている。海外の研究によれば、その遺伝子を保有している者同士はテレパシーで会話することさえも可能だと言われていた。

日本での報告例はまだ無い。日本の学会はおおいに盛り上がった。三重鎖に詰まった遺伝子情報がどのような働きをするのか、興味がつかなかった。

この事例はメディアでも大きく報道され、『奇跡の子』と称されてお茶の間を驚愕させた。 誰もが彼女の輝かしい未来を信じて疑わなかった。

彼女は良くも悪くも異質だった。そのためか表情の変化がほとんど無かった。いつも能面のような顔をして過ごしていた。

周囲からは気味悪がれ、父母も例外ではなかった。 両親の仲はしだいに険悪になった。酒瓶が転がり、物は散らかったまま放置されていた。 新築のマイホームはたった数年で酷くすさんだ。

子への愛情を無くした二人が、お互いに彼女を押しつけ合ったのが原因の一つである。 父親は全ての育児を母親に任せ、飲んだくれになっていた。仕事などとうに辞めていた。 あれを使えばいくらでも稼げる。懸命に働くのが馬鹿らしくなった。楽ができてうまい酒が飲める。こんな贅沢は無い。あれの飼育は世話係の妻に任せておけばいい。子供とはさみは使いようだ。彼にとってハルは子ではなく、金を生む道具であった。

母親はそんな夫を非難した。こんな恐ろしい生物をか弱い妻に任せて私腹を肥やしている。

それがどうしようもなく許せなかった。
何度も夫に世話をするように訴えたが、聞く耳を持ってくれない。こんな男とバケモノを育てる意味はあるのだろうか。徐々に家事の頻度が減っていった。

そしてある日、二人の男と女は完全に我が子の育児を放棄した……。


続く…

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