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物語①_マジックアワーにさようなら


暗闇の中で僕は安堵した。
そしてゆっくりと目を覚ました。
視界が朧気の中、強引に辺りを見渡す。
淡いクリーム色の壁紙とジプトーン天井。
机に置かれているデジタル時計は、17時を表示している。

「歩くん、おはよう。」

笑みを隠せぬ顔で僕を見つめる、彼は僕らをカウンセリングしている
主治医の橘先生だ。
橘先生は40代半ばで、笑顔が標準装備されたような人だ。
そして丸眼鏡をいつも掛けているのがもう一つの特徴。
そんな先生は僕らを7年以上担当している。
僕は橘先生が好きだ。きっとあいつもそうだろう。

『おはようって、時間じゃないでしょ・・。先生、今日って何日?』

橘先生は診察室の壁に掛かっているカレンダーに目を向けた。

「今日は・・31日だね。この間の会った時より1ヶ月ぐらい経ったね」
『そっか。まぁどうでもいいけど・・』
「相変わらずそっけないなぁ」

橘先生は表情をコロコロ変える。
まるで幼い子供の様に心と表情にフィルターがないみたいだ。
ちなみに今は眉を八の字にし、お菓子を買ってもらえなかった子供の様
な表情で僕を見る。

『そんな子供っぽいから結婚を逃したんじゃないの?』
「僕はね、子供を愛せない女性とは結婚しないから」
『全然関係ないような気がするけど…』

眉に皺を寄せて怒っている様な表情をしてみせるが、口元には笑みを残したままだ。

『40過ぎたおっさんなのに』

思わず呟いてしまった。
そして悔しいけど、僕も自然と笑みがこぼれる。

『あいつとなんかしゃべった?』
「聡くんも相変わらず40過ぎたおっさんをいじめてくるよ」
『ふーん。まっ、興味はないけど』

先生から目を逸らしながら、首元にある無機質な聴診器を見つめた。
僕は嘘を付いた時に視線を逸らしてしまう癖がある。
先生は咎める様子なんてなく、優しい表情で僕を見つめていた。
たぶん先生には嘘だと分かっているのだろう。

「気分はどう?」
『良くも悪くもないよ。普通じゃないかな』
「そっか、でも普通が一番良いんだよ」
『はいはい。先生もう帰っていい?』
「そっけないなぁ。荷物は後ろのかごに入っているよ。」

僕は体ごと後ろを向き、緑色のかごに視線を移した。

『分かった。じゃあまたね、先生』
「夕飯時だからまっすぐ帰りなさい。はい。さようなら」

診察室の扉を閉めると2月の冷たい風が肌を刺す。
窓から見えるオレンジ色の空は、ゆっくりと、だが確実に夕闇に
負けている様だった。

僕らが通う診療所は神奈川県茅ヶ崎市という街にある。
海に面しているこの街には、刺さるような冷たい潮風が吹く。
高台にあるこの病院にも行き場のなくなった風が診療所内を駆け巡る。
待合い室のソファに腰を下ろし待つ。
天井に埋め込まれたエアコンから心もとない暖房の風が吹く。

「寺島さーん。」

待合い室には僕しかいない。
受付の斎藤美香がよく通る声で僕の名前を呼んだ。

「歩くん、外は寒いから風邪引かないように帰ってね」
『いつも思うけど美香さんって良く分かるよね。ここ来たときはあいつなのに…』
「そりゃ目元が違うんだよ。聡くんとは」
『ふーん。そうかな。僕には良く分からないけど』

【メンタル橘クリニック】を初めて訪れたのは、小学3年生の初夏だった。
というよりも僕の一番古い記憶がその時期だ。
小学3年生に僕は目を覚ました。
その頃を皮切りに一日数時間、ひどいときには数日間の記憶がなくなる事が度重なった。
目を覚まし、家族と話をしても噛み合わない、聞き覚えのない約束を破ったとして母に怒られたりもした。
そんな事が幾度も続いた事や、一人称が“俺”から“僕”になったりする事を、不思議に思った両親が、様々な病院を巡った末に、
【メンタル橘クリニック】に僕達を連れて来たというわけだ。
今思えば、お笑い芸人の名前のような診療所に来るという事は
両親もだいぶ疲弊していたのかもしれない。
診断結果は、【解離性同一性障害】かつては多重人格障害と言われていたらしい。
そして僕は【オリジナル】といわれるあいつから、無意識に作られて出来た架空の人格だそうだ。
もっとも小学生だった僕に分かりやすく、そして慎重に橘先生は説明してくれた。
いつかは、僕ではないもう一人のあいつへと帰化しなくてはならないとの宣告も遠回しに言われたのだ。
もっともどんなに丁寧に話そうが、小学三年生だろうが、理解出来る訳がない。
帰化という言葉もやり方も分からないし、なにより怖かった。
僕は僕だと、呂律の回らない泣きっ面で叫んだのを今でも覚えている。
その時から僕は【オリジナル】と呼ばれるあいつが嫌いだし、あいつも僕が嫌いのはずだ。
相思相嫌とでも言うのだろう。
唯一の救いは、僕らの両親が寛大なのか、能天気なのか余り深く考えずに僕を受け入れてくれた事だろう。いや恐らく両親も混乱していたに違いないと、今なら思う。
ただ僕の前では同情ではない確かな愛情を注いでくれていた。
カナル型のイヤホンを付けGREENDAYのマイノリティを聞きながらバスに揺られる。
緩やかに低地へと下ってゆく。
ちなみに僕らはそれぞれに違うイヤホンを持ち違う音楽を聴く。
お互いが反発しあう同士だから自分の物は使われたくないし、あいつの物も使いたくないので、出かけるときは必ず2つ持って行くことにしている。
あいつもそうするという事は、同じ理由なのだろ。
そして唯一似ている事といえば音楽を聴く事だ。
あいつがどんな音楽を聴いているのかは知らないし、もし聴くものが同じ様な趣向なら僕は今聞いている音楽を嫌いになっているかもしれない。
それぞれのイヤホンは両親が買ってくれた。僕が頼んだという記憶がない。
それとあいつが両親に頼んだかなんてことも分からない。

 バスは停車場に着き家路を歩く。僕の家は一階を漆喰塗りにしており、二階部分を杉板の縦張りをしている築5年の木造住宅だ。海岸沿いに面している町だから杉板の風化がすでに所々見受けられるが、父からすれば家族の成長と共に家も成長すると、僕達そして、自分にも言い聞かせるように言っていた。
 
「歩。おかえり。」
「手洗いとうがいをちゃんとするのよ。」

夕飯の準備しながら顔も見ずに母は僕に言った。

『うん。ただいまー』

二階にある僕の部屋に行くには一度リビングを経由しなければ行けない。
家族のコミュニュケーションを取れるようにと父の知り合いの建築家が設計した。
子供にとってはいらぬ配慮だとつくづく思う。
まぁ特に女っ気もないし、卑しい事もないから良いのだけれど。

二階には4部屋あり、内一つは僕の部屋となっている。そう僕らにはそれぞれに部屋があり、エアコンやテレビそれぞれの好みのインテリまで整っている。もちろんこれらも両親が当たり前の様に揃えてくれたものだ。
僕の家族は”オリジナル”ではない僕も本当の家族として当たり前に育ててくれた。僕が現れたという小学3年生の頃から今に至るまで変わらぬ愛を注いでくれていたと思う。
だから僕自身も一人の人間として、家族として当たり前に人生を歩んできた。
僕の隣部屋にあいつの部屋があり、あいつの向かい側に妹のみなみの部屋がある。
イヤホンだけ抜き取った荷物とダウンジャケットをあいつの部屋に投げ入れ
一階のリビングに降りた。

「歩、お茶取って」
『みなみの方が冷蔵庫に近いんだから自分で取りなよ。』
「そんなに変わらないし、立ってるんだからいいじゃん」

わざと作った顔で僕を睨む。

「みなみも、もうご飯だから運びなさいよ」
「はーい」
母がそう言うと、みなみはようやく重い腰を上げた。
みなみは4月で中学二年生になる。
偉そうで生意気だが、兄妹仲は悪くなく、寧ろたまに二人で出かけたりする事を考えると、仲は良い方だと思う。
そして先ほど僕に頼んだお茶をちゃっかり僕の分まで持ってきてくれる可愛い妹であり、大切な家族である。

「お父さん、今日はもう帰ってくるみたいよ。さっき駅に着いたって連絡来たのもっと早く言ってくれればみんなで食べられたし後の片付けも楽なのに。」

父の愚痴を言う母は呆れたように呟くが、どこか嬉しそうに声を弾ませている。

「頂きますー!」

今日の夕飯はサラダに筍の煮物、ワカメのお浸し、大根のお味噌汁そしてメインに母の得意料理であるから揚げである。正確に言えば、父の好物のから揚げが必然的に母の得意料理になったと得意げに父は言った。もちろん僕とみなみも大好きなお袋の味だ。
 
「ただいま!おっいい匂いだな。」
「おかえりなさいー!」

いち早く母が返事をする。

『おかえりー』
「いってらっしゃい。」

それぞれに父の帰宅を歓迎している。
「みなみ、帰って来たばかりだよ。そんな悲しい事言うなよ・・・」
「歩か、今日はどうだった?」

父は、リビングと続き間になっている和室で部屋着に着替えながら聞いてきた。

「別に病院で起こされたから、特になにもないよ」
「そっかそっか。まぁなにもない事が一番良い事だ。」
 
僕の家族は僕らが”解離性同一性障害”という事を変にごまかしたり、気を使うことはしない。ただ”僕”でいる時は、あまりあいつの話をしない。
おかげで僕は一人の人間として生活をしている錯覚になる。
たまに記憶が飛んでしまう病気を抱えている人間ぐらいの感じだ。
家族以外の場所では僕は”寺島 聡”になる。

否が応でも思い知らされるのは、僕は嘘で出来たひとつの”人格”なのだと。
幸いな事に、今日僕は病院と、家しかいないからそうした思いにはならなかった。

夕飯を終え、自室に戻るとあいつと僕とで共通に使っているノートをカバンから取り出した。
僕らは何の前触れもなく入れ替わるので、こまめにノートに記し、直前までの出来事を残す必要があるのだ。
もっともノートに記すまえに入れ替わったり、書き忘れたりもあるが、このやり方が周りに気が付かれぬようにする処世術のような物だ。
ノートに書かれていた今日出された宿題に手を付け始めたが、中々解けない。仕方がない僕が前に起きたのは2日前だからだ。
学校の先生たち基本的に僕らの事を理解してくれている。
ただ病気の事は同級生には知られたくないと、両親が先生たちに伝えてくれていた。

僕らの病気は決して喜ぶものじゃないし、苦悩は絶えない、そしていつ消えるか分からない恐怖が付き纏う。が、つくづく僕らは理解ある人たちに恵まれていた。
少なくとも僕はそう思う。
そう思うと同時に僕の中の恐怖が姿形を見せないまま成長を続けている。

宿題がひと段落し、LINEを適当に返しながら液晶に映る時間を見たら、午後11時を回っていた。
起こされたのはさっきだが、体は眠いとサインを出している。

『ふぁー』

気のない声をだし、縮こまっていた体を関節が許す限り伸ばした。
照明の紐を二回引っ張り常夜灯にしてからベッドに入った。

目を閉じても中々眠れない、生きている中で寝るまでのこの時間が一番怖い。
寝てしまうともう二度とこの世界や好きな人達に会えなくなると考えると、胸が締め付けられる程苦しくなり、涙が溢れてしまう。
考えるなと、自分に言い聞かせれば言い聞かせるほど僕の思考は、バットエンドを思い描いてしまう。
そうなる前に僕は少し目を開ける
オレンジ色の常夜灯が目に映ると、なぜか少し落ち着く。
オレンジの小さな灯りが僕に寄り添っていると感じるからだ。

小学生の時に両親が僕より先に死ぬ事を考えると胸が締め付けられ、涙が自然に溢れてきた。
だけど今は、僕が両親より先にいなくなる事を考える。
僕の場合は十分にあり得るからだ。
今日寝てしまったら、僕は2度と目を覚まさないかもしれない。
帰化するという事はオリジナルと同化するというが、僕には到底理解したくないし、そうなってほしくはない。
ただ僕は、あいつ・・”オリジナル”から出来たコピーなのには変わりない。
もし僕が主人格ならば、そういう風に考える事もきっとないだろう。
普通の高校生活を送って、大学生になって就職し結婚もすると思う。
全ての時間を僕が記憶し、見て、話してと五感をフル稼働しながら
毎日を感じる事が出来る。

ただ一人の人間として生まれたかった。

この家族の元で、今通っている学校で一人の僕としてオリジナルとして人生を歩む事を望んできた。
普通なら存在しない僕が存在しえない可能性を望んでいるのだ。
そう考えると僕の望み自体はこの世に存在しているのだろうか・・
そんなこと考えていても最終的には僕は主人格から出来たコピーだという答えを巡り巡ってしまう。

常夜灯はそれでも小さく灯っていた。

~物語②へ続く~


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