見出し画像

三代続いた親子の確執 その13

女学校生活は楽しかったものの、太平洋戦争に突入していた時期だったので、勉強より軍事訓練や戦争に関わる物資調達の製造などが多く、大変な時代だった。それでも、毎日友達を会えるのは嬉しいことだった。

昭和20年8月終戦後、父の酉蔵は戦地から戻り、一家の大黒柱として魚の行商をし始めた。父は軍人上がりできちっとしており、娘の私から見てもハンサムな部類だったと思う。そのうえ、商いの才能があったのだろう。仕入れた魚を、八戸市内では売らず、海から遠い岩手県金田一温泉の調理場の板長と親しくなって、主に高級魚を売りさばいていた。

少しづつ、貯蓄し5年後には、イカ釣り船を購入して船主となった。父の甥っ子たちが、乗組員となって働いてくれた上に、戦後の好景気が後押しし、
生活は豊かになっていった。

私はといえば、自分の欲しいものを買える環境がほしく、何とか外で働きたいと思い、父に相談した。父は船と関連する造船所の経理の仕事先を見つけてくれて、運よくその会社に就職することができた。

初めての給料袋を受け取った時の何とも言えない幸福感。私が自由に使えるお金を初めてよそからもらえたのだ。世間の母親は娘のための嫁入り道具を揃えると、女学校の友達が話していたのを聞いていた私は、自分の母親はそこまで考えていないだろうと思い、自力で自分の結婚資金をためようと頑張った。

ご縁があり、当時国鉄職員だった上野清と結婚することが決まった時も、思った通り、母は嫁入り道具が必要なことさえ知らなかったのだ。今思えば、しょうがないことだったと思う。母は17歳で叔母のいうままに結婚し、
入籍だけで、結婚式などできず、まして嫁入りしたくをしようにも、自分が自由に使えるお金などなかったのだから・・・

昭和29年11月25日25歳で上野清と結婚。当然、自分たち二人の結婚生活が始まると思いきや、夫・清の提案でまたしても、実家から離れることができなくなった・・・

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?