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「絵から生まれた物語展」第5展示室

第5展示室:ある目撃者の午後


そっと訪れる静かな午後のひとときに、私はひとり、目撃者となる。

足音を忍ばせてアトリエの前に立つ。扉は古く、いつもほんの少しだけ開いている。生乾きの絵の具の匂いが漂う。箒を持つ手に力が入る。この屋敷の旦那様は、午後になると隣室のアトリエにこもり、絵筆を片手にキャンバスに向かう。眉間にしわを寄せ、難しそうな顔をして。

キャンバスの前には、モデルの女。姿は見えないけれど、時折聞こえてくる黄色い声は、髪に白いものが混じり始めた奥様に比べ、彼女が随分と若い娘であることを物語っている。旦那様の求めに応じてポーズを取り、その気を引こうとしているさまも自然と目に浮かぶ。
彼女の小さな笑い声と、それに呼応する旦那様の優しい声が、隙間風となって扉から洩れる。胸の高まりに気づかれないよう、私はまた静かにその場を離れる。

何食わぬ顔で奥様の様子を窺う。奥様は、やわらかな午後の陽射しが降り注ぐ小部屋で、熱心に手紙を読んでいる。テーブルに広げられた何通かの手紙を、繰り返し繰り返し。

たまに訪れる郵便配達員の青年がドアベルを鳴らすたびに、奥様は私を制して玄関まで行き、自分で郵便物を受け取る。手紙の差出人を確認すると、ほんの少し頬を紅潮させ、急ぎ部屋へ戻って封を開ける。

ある時私は偶然に、本当に偶然に、掃除の最中、奥様の手紙を見てしまった。封筒の裏に書かれていたのは……男性の名前。思わず封筒の切り口に指を差し入れようとしてしまったが、その瞬間、近づいてくる足音に気づいて思いとどまった。

静かな午後は、このように毎日、危うげに流れている。だから突然の破綻も――

「もう飽きちゃったわ、おなかもすいたし」
アトリエの扉がバタンと開いて、旦那様と、その腕にしがみついた娘が部屋に入って来た。奥様が慌てた様子で立ち上がると、読んでいた手紙がはらりと床に落ちた。
「あ……」
どちらの発した声だったか、旦那様は奥様の手紙を拾い、娘は旦那様から離れて、奥様に抱きついた。

「また手紙なんか読んで。あいつは隣国でちゃんと勉強しているんだから余計な心配なんてすることないんだ」
「お兄ちゃんなんてほっといてよママ。おなかすいたわ」
奥様は旦那様とお嬢様の言葉にふうと小さく息を吐くと、かすかに微笑んで私に声をかけた。
「お掃除はそれくらいにして、夕食の準備をしましょうか」

静かな午後はこうして幕を閉じる。何の事件も起こらずに、何の予兆も孕まずに。毎日ただ、私は一点の曇りもないこの屋敷で、黙って掃除をし続けるのだ。

室内画
ピーテル・ヤンセンス・エーリンハ『画家と読みものをする女性、掃除をする召使のいる室内』


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第6展示室

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