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「絵から生まれた物語展」第6展示室

第6展示室:天気雨の日に


そのひとはいつも、黒い服を着ていた。

よく晴れた昼下がり。ぼくは、彼女に言おうと決めた。
カーテンを閉め、部屋を見回した。簡素だがぬくもりのある木製のベッド、使い込まれた机に、座ると音の鳴る椅子、そして備え付けのクローゼット……どれも心地よいもので、これまで過ごしてきた日々の穏やかさを象徴しているかのように見えた。

部屋の中央に立てかけられた古いイーゼルは、彼女の知り合いの画商が譲ってくれたもので、脚が少しぐらつくものの、支障なく使うことができ愛着もわいてきた。立てかけられたカンバスは、イーゼルとは不釣り合いなほどに白く、真新しい。

白いカンバスを背に、ぼくは扉を閉め、彼女に会いに行った。
彼女は、三階に住んでいる大家だ。
彼女を思い出すとき、なぜかいつもこの日の光景ばかりを思い出す。毎日のように顔を合わせていたのに。
扉が、わずかに開いていた。一筋の光が床に伸びて。名前を呼び、ノブに手をかけた。
彼女は、いつものように窓辺に佇み、通りを見ていた。「雨?」
ぼくが再び口を開くより早く、彼女が空を見上げて呟いた。
そして振り返ると、
「お天気雨」
と、彼女は言った。
彼女越しに見える窓からは、きらきらと陽の光を受けて輝く何本もの雨の線が見えた。

その部屋の真ん中には、テーブルがひとつだけ置かれていて、かけられた白いクロスは、張りたてのカンバスにも似ていた。でもカーテンも、床も白かったような気がする。その部屋は白かった。白くないのは、彼女だけ。彼女はいつも、しっとりと黒い服を着ていた。

振り向いた彼女の顔はよく覚えていない。笑顔だったような気もするし、少しだけ寂しそうだったようにも思える。急なお天気雨がもたらした揺らめくような外の光のせいで、ぼくはただ、眩しいと思った。
「出ていくのね」
「はい。お世話になりました。でもいつかきっと、帰ってきます」
雨は変わらず、不釣り合いな明るい空から降り注ぎ、ぼくの声を震わせていた。
ぼくは、声を張り上げた。画家になって、成功して、帰ってきます、と。そして……

「行ってらっしゃい。でも、帰ってくるなんて言わないで。成功して、どこかの大きな街で幸せになりなさい。ここはそういうところ。私はこれまで何人も見送ってきたけれど、誰一人として再び出会うことはなかった。でも、それでいいの」
彼女はそう言うと、また、窓の外を見つめた。すると急に、雨が止んだ。そして、影が、いや光が揺らめくと空が、曇りのない明るさを取り戻した。
「もうすぐ青空が見える。お天気雨はほんのひとときだけで、雨はすぐに止むもの。そのあとは本当に綺麗な空になるのよ。虹もよく見える」
そして彼女は小さく笑ったように思う。

「ここもね、お天気雨みたいなものなの。晴れと雨の間を彷徨う不安定な時期に一時、体を休ませる場所。やりたいものが見つかったら出ていく。それだけのこと」
「それなら、どうして」
つい、口にしてしまった。
「どうしていつも窓の外ばかり見ているんですか。まるで誰かを待ってるみたいに……」
ぼくは、言ってすぐに後悔した。彼女が寂しそうに笑ったから。

「きっと、あなたもすぐに忘れる。そしてもう二度とここへは戻ってこない。だから後ろは見ないで。もう充分、あなたは大丈夫よ。それに私が待っているのは……」
このとき、彼女はなんて言っただろう。あの時の記憶はひどく曖昧で、ただ彼女の寂しげな笑顔だけがいつまでもぼくの中に張り付いていた。

その日、ぼくは白いカンバスを脇に抱えて、出て行った。ぼくの後は、どんな人が部屋に住むのだろう。ぼくの前、どんな人がその部屋で迷い、心を決めたのだろう。
彼女が、帰ってくる誰かを待っている、と考えるのはぼくの勝手な妄想かもしれない。もしかしたら、もう二度と帰ってはこない誰かを待ち続けたいだけなのかもしれないし、本当に誰も帰ってこなければいいと思っているのかもしれない。あの目立たない黒い服を着て、ひっそりと、陰のように画家の卵を見守り巣立っていくのを見届けるだけでいいと考えているのかもしれない。誰の記憶にも残らないように地味な服を着た、笑顔の大家。

でもぼくは帰って来た。見慣れた町へ足を踏み入れる。建物も人も記憶の中と違わない。別れの日と同じ、よく晴れた昼下がり。真っ白いカンバスを手に。ずっと描きたかった被写体に会うのだ。彼女の黒い服は、白いカンバスに映えるだろう。母親のように面倒を見てくれた彼女。多くは語らずとも背中を押すように優しく言葉をかけてくれた彼女。

いつも与えてばかりの彼女に渡したい言葉があった。言ったら、別れの日と同じように振り向いてくれるだろうか。
そもそも、ぼくのことを覚えていてくれるだろうか。ほんの少しのためらいが、足を鈍らせる。

急に、雨が降り出した。あの日と同じ、天気雨だった。慌ててカンバスを布で覆う。雨は、ぼくの見苦しい想いを洗い流していく。彼女は雨のあと、何度虹を見ただろう。彼女の目に、ぼくは虹と映るだろうか。早く会いたい。今度はぼくが何かを与える番だと願ってしまうのは傲慢かもしれない。でも、たった一つの言葉を持って扉を開け、言いたい。
「ただいまマリア」と。

ヴィルヘルム・ハンマースホイ「室内、ストランゲーゼ30番地」


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