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徳島県が舞台の短編小説◇ボラとうず潮【後編】(3777字)

こちらは、阿波しらさぎ文学賞落選(ぴえん!)の
ゆにお小説作品「ボラとうず潮」の【後編】どす!

【前編】はこちらより↓




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ボラとうず潮【後編】(3777字) ゆにお・作


⑤ 小僧の舵取り


 中に入ると、座席は小僧が座っている操縦席のみだった。僕はやむをえず、扉を開けてすぐに一段だけある階段に腰掛けた。すると、小僧が前を向いたままで言った。


「お客さん、あなたさっき1キロ先と言いましたがね。その臭い、自宅のシャワーじゃ落ちませんよ」


 小僧がこんなことを言うのは、僕が臭いからだ。悪臭から逃れようと、この小部屋にやってきたが、結局は僕の全身もどぶ臭いのだった。僕は、気まずくなりことばに詰まった。黙っている僕に小僧が続けた。


「お客さん、鳴門海峡まで乗せて行ってあげましょう」

「えっ……いえ、そんな場所にいっても……」

「うず潮には、心や身体を浄める力がありますから……」

「……申し訳ない。僕、臭いですよね?」

「……ええ」

「わざとじゃないんです。うっかり、御座船入江川に落ちてしまって」

「でしょうね。御座船入江川と同じ臭いがします」

「……はい。僕は、とある知人との待ち合わせに向かっていたんです。
しかし、こんな格好になってしまったでしょう? 
だから、会うのは諦めて、今日はもう、家で風呂に入ろうかと思っているんです」

「……お客さん。その臭いはとても民家の風呂なんかじゃ落とせませんよ。うず潮に飛び込んで、洗いざらい流し切ってしまわないと……」

 うず潮にそんな洗浄力があるだなんて初耳だった。それに、ここから鳴門海峡までの運賃はいくらだろう。第一、カネだってどぶ水浸しで臭いはずだし、そんな汚れたカネをこの小僧が受け取るだろうか。


⑥ 犬神


「運賃の心配をしているのですね」


 僕はぎくりとした。小僧の口調は子どもとは思えないほど、落ち着いていて大人びている。


「……そうですね。それに、僕のカネは臭いカネなんです」


 僕は素直にそう答えた。小僧は、あえて無視したのか、船の舵取りに集中しているのか、何も答えない。

 窓の外は変わらず靄(もや)だらけだったが、小僧は船体を防波堤や川底に擦ることなく、そろりそろりと前へ進めていた。蛍光灯の光が寒々しい操縦室の中に、しばし沈黙が流れた。

 やがて、小僧が口を開いた。


「犬神にお気をつけなさい」


 僕はきょとんとした。さっきまで僕は、カネの話をしていたのだ。犬神なんて1ミリも話題に上らなかったのに。


「犬神がどうかしましたか?」

「いえね、今朝の徳島新聞を読みましたか?」

「……いえ。NHKラジオなら聞きましたが」

「全国版でしょう」

「……いえ」

「そんなんじゃあ、この町のことなんかわかりゃしませんよ。最近ね、犬神宛にね、来るらしいですよ。本土のほうから、たくさん……」

「本土から? 何がでしょう」


 すると小僧は、声を潜めて言った。

「〝不倫相手を、殺して欲しい〟って、呪いの依頼」


 僕は、一瞬背中がぞくりとするのを感じた。しかし、何食わぬ顔で言った。


「……へえ、実にくだらない。女が頼むんですか?」

「いえいえ、旦那が頼むそうですよ。徳島にはね、本土への単身赴任で残された女房が多いでしょう。そういう女がね、若い男を漁るんだ。
そこで、本土にいる夫がね、頼むそうです。するとね、犬神が、不倫相手に取り憑くのだとか……」

「犬神なんて、迷信ですよ。ばかばかしい」


僕は吐き捨てるように言うと、爪の甘皮をちみりと毟(むし)った。小僧は相変わらず、こちらを振り向かず声を潜めたまま言った。


「そうでしょうか。では、あなたの臑(すね)はどうしたのですか?」


 僕の臑(すね)がどうかしただろうか。
 気になってがに股に広げた両足に視線を落とすと、右の足首に茶色いものが見えた。

 慌ててズボンをたくし上げ、臑を確認すると、小さなコロッケほどの面積の肌にびっしりと焦げ茶色の短い毛が生えていた。僕は、「ヒャッ!」と叫んで立ち上がった。すると、船がゆらりと傾き、船体がコンクリートに擦れる鈍い衝撃音が響いた。


「動くな! 〝わんだーなると〟の操縦が狂うッ」


 僕は立ち上がったままで謝った。


「す、すみません……あまりに驚いてしまって」

「だから言ったでしょう。あなたは犬神に取り憑かれているのだ」

「な、何かの間違いですよ……僕は、人妻と不倫なんて……」


 この通り、未遂に終わっている。臑にこんな気味の悪い毛まで生えてきたのでは、なおのこと女に会うことは叶わない。


「早く犬神の誤解を解きたいものです。
僕は何も呪われるようなこと、していないのに……」


⑦ 清めのうず潮


 そう、女には指一本たりとも触れていない。
 それなのに、こんな呪いを掛けられるとは理不尽極まりない。


「だからこそ、あなたはうず潮で身を浄める必要があります。あれは、強い塩水でしょう。あなたには清めが必要なのだ」


 小僧は、力強く言った。たしかに、悪臭だけならまだしも、犬の毛が自宅のシャワーで洗い流せるとは考えられない。それに、小僧の話には説得力がある。僕はすがるような気持ちで、鳴門海峡に賭けてみようと思った。


「わかりました。運賃が足りなければあとで払いましょう。
僕を鳴門海峡まで連れて行ってください。そしてうず潮に飛び込んで、この身を浄めるのだ」


 小僧の口元がぐにゃりと歪むのがバックミラー越しに見えた。小僧なりの笑顔のようだった。


「もちろんです。私は最初からそのつもりでした。その証拠に、ほら。もう〝わんだーなると〟は海に出ますよ」


 小僧がそう言った瞬間、前方の白い煙が一気に晴れ渡った。そして、そこにはクリスタルブルーの海と抜けるような青空が広がっていた。

 眩しい乱反射の先に、紺碧のうず潮が見えた。白くきめ細かいしゅわしゅわと、濃紺の水面が、マーブル状にうずを巻きながら凄い勢いで回転していた。

〝わんだーなると〟はためらうことなく、うずの核へと近づいていく。

 小僧は、操縦桿から手を離し、両手を広げて声も高らかに叫んだ。


「さあ、甲板へでなさい。そして、うず潮に飛び込みなさい。
なあに、清めが終われば私がさっきあなたが登ってきた縄梯子を、うずの中心に向かって投げてあげます。それに掴まって再び船へと戻ってくればいいのです」


 それは助かる。僕は操縦室を飛び出し、甲板へ続く階段を駆け上がった。がん、がん、がん、と金属を踏む足音が響く。

 船は、うず潮の渕ギリギリのところで、大きく左右に揺れながら水上停止していた。ゴウゴウとうず潮の迫力に、僕は怯んだ。すると、小僧が甲板の上にあがってきて言った。


「なんだ、まだ飛び込んでないのか。
こんな爽やかな海の上にいるというのに、あなたの身体はまだどぶ臭いままでしょう。
一生それでいいんですか?」


 そんなの嫌だ。確かに、今でも僕の鼻はどぶの臭いを嗅ぎ取っている。即ちこれは、僕自身の臭いなのだ。こんな臭い身体では女も抱けないし、どこにも出かけられない。


「さあ、行くのです!」


 小僧の号令に、背中を押されるように僕の足は金属の床を蹴り、駆け出した。そして、錆びが目立つ手すりを股ぎ、うずの中心目掛けて飛び込んだ。


⑧ 終わり


 そのとき、うず潮が灰色になった。何かがおかしいと察知し、僕は空中で手足をもがかせたが、重力の法則に逆らうことはできなかった。つま先が水面に触れ、足首まで水に浸かったところで、僕にはわかった。この、ぬめり。この、つめたい肌の感触。


――ボラだ!


 飛び込み沈んで、また浮き上がり、水面に顔を出してあたりを見回すと、周囲はボラだらけだった。僕はうず潮ではなく、再びボラの魚群の中に飛び込んでしまっていたのだ。僕は慌てて両目を手で塞いだ。何とか顔を水面に出したままで、船の上の小僧に向かって叫んだ。


「だましたなッ! お前……鳴門海峡に俺を連れて行くとか言っておきながら……ずっと御座船入江川を行ったり来たりしていただけだろう……っ!」


 川にはずっと濃い靄(もや)がかかっていた。それで僕はすっかり騙されてしまったのだ。いや、うず潮の幻視を見せるくらいだ。あの靄ですら、小僧が作り出したものだって可能性すらある。


「かんらからから、かんらから!」


 頭上から、小僧の弾けるような高笑いが降ってくる。おかしくておかしくて、仕方がないという笑い声だった。

 僕は、恥ずかしさと怒りで頭に血が上るのを感じだ。僕は暴れ回るボラの渦に巻き込まれ、目まぐるしく浮いたり沈んだりを繰り返していたが、力を振り絞り、がむしゃらに足をバタつかせると、水面に顔を出して。そして、目を塞いだ手の指と指の隙間を微かに開き、甲板の上の小僧を睨んだ。

 すると、小僧の顔は口が耳まで裂けた卑しい犬の顔に変わっていた。長くて薄いべろを左右にひらひらと振りながら、唾を飛ばして笑い続けていた。

 その顔を見て、僕は諦めがついた。それから再び指の隙間を塞ぐと、全身の力を抜いた。
 そして、悪臭漂うボラたちが、われもわれもと群がり暴れ回る黒い渦の動きに、逆らわず身を委ねることにした。

 とにかく、両目を死守しながら。



■お読み下さり、ありがとうございました!

by ゆにお


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