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アメリカ人が描く在日のストーリー『PACHINKO』

2017年にアメリカでベストセラーになったこの本を手に取ったきっかけは、2019年の秋にコリアンアメリカンの友人から勧められたことだった。それまで学校の課題以外で英語の長編小説を1冊読んだことはなかったのだが、植民地時代の朝鮮半島から日本に移住した家族4世代の話という、内容があまりにも身近であったことから興味を持ち、英語で読み始めたのが2020年の頭である。夏には日本語版も発売されたので、日本語でも読み直した。

小説に登場するさまざまな人物の生き方や考え方は、私のなかで自分のルーツを再確認するきっかけになったと同時に、自分のアイデンティティのなかにあった一種の寄る辺なさが言語化されたことでなんだか癒されたような体験となった。我が家では母が韓国語版を、姉と父が日本語版(2020年夏に発売)を読み、その後母の友人、そしてその家族へと読書の輪がどんどん広がっている。正直、日本語訳は淡々としすぎており、日本語小説としての完成度の高さとしては今一つの印象もあるのだが、それでもこれだけ身近な在日社会でぐんぐん広がっているのは、在日なら誰しも小説のなかに必ず自分と重ね合わせられる部分があったからだろう。

ひと括りにできないアイデンティティ

占領下の朝鮮半島から渡ってきた1世、日本で生まれ育った2世と3世。時代背景、教育レベル、付き合う人たちによって世代ごとに価値観が変わるのは当たり前だが、私たちのような在日や移民の場合はそれに加えて言語や習慣などの文化的背景や被差別体験、同化意識などエスニックアイデンティティを形成する体験が世代間で大きく異なるのが特徴だ。

さらに同世代のなかでも「日本で生きていくこと」との折り合いのつけ方はそれぞれの体験や感じ方によって本当にさまざまだ。

たとえばこの小説では、在日2世の裕美とその恋人(のちに夫)モーザス、そしてモーザスの兄ノアの考え方の違いが描かれている(ちなみにノア・モーザス兄弟の名前は親が牧師であるがゆえ)。

裕美は、不遇な生い立ちや環境から、自らのエスニシティがデメリットであるかのような差別的視点を内在化してしまい、自分にとっての第3国であるアメリカに移住することを夢見る。その心情を見事に表したのが次の文だ。

裕美にとってコリアンであることは、貧困や恥ずべき家族のように、振りほどくことのできない足かせのようなものだった。あんな国に帰る理由など何一つない。それでも、いつまでも日本にしがみつく気もなかった。日本は、こちらがどんなに愛しても自分を愛してくれない継母に似ていた。

一方モーザスは、ケンカばかりして結局学校を中退し、在日による産業の代表格ともいえるパチンコ業界で働き始める。その境遇を嘆くことなく与えられた場所で結果を出してきたモーザスはこんな風に考える。

モーザスは自分が生まれた国を離れようとは思わなかった。日本を離れてどこへ行くというのだ? 日本は自分たちを煙たがっているかもしれないが、だから何だ?

在日であることを受け入れるモーザスと対照的なのが兄のノアだ。ノアは幼い頃より日本人になりたいと密かに願い、戦争で学業を中断されながらも猛勉強を続けて早稲田大学に進学する。いわば在日の星である。しかし彼はその後自らの出自を隠して生きる選択をするのだ。自分は日本人ではないということを常に突き付けられて育ってきたからこそ、その前提抜きに1人の人間として見てもらえるようになりたいと思い続けた結果の選択だ。その思いは日本人の恋人晶子とのやり取りで明確になっていく。

晶子は彼を別の誰か、現実にいもしない"外人"としてしか彼を見ていないのだ。ノア自身を見ていない。誰もが嫌うような相手と交際する自分は特別な人間だと、この先もいまのまま信じ続けるだろう。ノアの存在は、彼女にとって自分が善い人間、教養の高い人間、リベラルな人間である証明書なのだ。 

しかしそんなノアは自分が努力できる人間だからこそ、努力するチャンスすら与えられなかった多くの在日の人たちの気持ちが理解できない。そして日本人でないとまともな仕事に就くことができない時代に、パチンコやヤクザなどで生計を立てるしかない人たちを見下すような感情を持ってしまうのだ。どんなに社会階級が低くても努力次第でそこから抜け出せるというこのメリトクラシー的考え方は、正直私自身も身に覚えがある。

血や国籍というシンボルで定義できない自分

裕美とモーザスの息子、ソロモンは在日3世だ。幼い頃よりインターナショナルスクールに通い、ニューヨークの大学を卒業後、東京にある外資系の投資銀行で働く彼は、両親や叔父のノアほど在日であるがゆえの不遇を体験してこなかった。

しかし就職後、「差別などしない」という日本人上司とのやり取りのなかで実は差別されていることに気付いたり、日本を批判的に見るコリアンアメリカンの恋人フィービーとの会話のなかで日本を擁護する自分に気付いたりと、大人になってから自らのエスニシティやアイデンティティに向き合うようになる。実際、2世であるモーザスと3世であるソロモンの会話では、「制度などであからさまな差別が存在していた時代に育った世代」と「あからさまな差別を体験せずに来た世代」の違いも描かれている。差別があることをある意味前提と捉えてきたモーザスと、自分が差別されるという事実を目の当たりにして愕然とするソロモンの対比は世代間の体験差をよく表している。

フィービーと結婚すればアメリカの市民権が取れるという選択肢を前に、ソロモンが国籍について考えるシーンは印象的だ。韓国に行けば日本人扱いされ、アメリカの教育を受けたもののアメリカ人になりたいとはまったく思わず、今すぐ日本人になりたいとも思わない一方で自分のことをある意味日本人だと捉える心情は、自分自身を血や国籍というシンボルでは明快に定義できないし、ましてそうするつもりもないというリアルな気付きが描かれている。

日本人はそう考えないとしても、ある意味ではソロモンだって日本人なのだ。フィービーの目にはその事実が見えない。人が何者であるかを決めるのは血だけではない。

2020年最高の読書体験

この本は全米図書賞の最終候補まで残り、アメリカで話題になったそうだ。在日という日本のなかでもよく理解されていないエスニックマイノリティの物語がアメリカで受け入れられた理由は、Newsweekに掲載された渡辺由佳里さんのコラム(のちに日本語版あとがきにも掲載)によると「場所や人種が異なっても、『移民の苦労ばなし』が普遍的なもの」だからだという。先住民族以外ほぼ移民で成り立ってきたアメリカならではだろう。

そういう意味では、日本にはこの小説で描かれている心情に共感できる人は少ないのかもしれない。けれど、裕美のように幼少期からアメリカに憧れ、ノアのように日本人になりたいと思った時期や弱者の心情を思いやれなくなった時期を経て、ソロモンのように新たな国籍によって自分を再定義するつもりはないと考えるに至った在日3世の私は、この小説を通して自分のアイデンティティについて改めて認識したと同時に、なぜか「それで大丈夫」と認められたような気になった。冒頭に書いた「癒されたような体験」とはそういうことだ。その意味でこの本は、2020年最高の読書体験をもたらしてくれたと言えるだろう。

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