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仕事での対立を個人的関係にまで持ち込むな

私は意見を率直に表明する方だ。特にビジネスにおいてはそのほうがよいと思っている。異なる意見の場合は尚更だ。全員が同じ意見などありえないし、異なる視点があるからこそアイデアや方向性はブラッシュアップされる。なにより、私は自分が納得できるかたちでないと物事を前に進められないし、チームメンバーをモチベートすることもできない。よりよいアイデアや方向性を生むためにも、決まったことを効率よく推進していくためにも、議論をして着地点を探すことは建設的なプロセスだと思っている。むしろ、意見を言わないことは無責任だとすら感じている。このことは特にマネージャーになってから強く自覚するようになった。

だから、会社員時代は色んな人とよく意見を戦わせた。クライアントと喧嘩したこともあったし、同僚とは議論がエスカレートすることもあった。

興味深いのが、その後だ。

私は喧嘩をしたクライアントとは今でも仲良くさせてもらっている。独立後に仕事も頂いていた。クレームを頂いたクライアントとも先日楽しく飲ませてもらった。

彼らと私に共通するのは、「目指すところが同じで、そこに至るアプローチが違うだけ」という認識だ。サービスをよくしたい、売上を上げたい、何かを成功させたいなど、目指す地点は一致しているが、「それを実現するのに一番いい方法」だと思うことがそれぞれ異なる、というわけだ。だから、その問題以外では普通に仲良くすることができる。むしろ、それ以外の面を知ることは楽しいことだし、積極的にそうしていきたいと思っている。

しかし悲しいことに、その対立を個人的な関係にまで持ち込んでしまう人もいる。

先日、私としばしば意見を対立させていた元同僚のAさんが会社を辞めることになった。彼と私は本当によく議論をした。でもそれは上述の建設的なプロセスであると私は信じていた。だから、それ以外では普通に仲良くしたいと考えていた。

彼がどのように考えていたのかは知らない。ただ、彼は彼のチームメンバーに対し、私との対立について話していたようで、それを聞いていたそのメンバーたちは、彼と私がただ仲が悪いと解釈したようだった。

Aさんの退職に際し、彼らは送別会を企画した。私にも送別メッセージを送るようにという依頼があったが、送別会の連絡はこなかった。しかし色んな人から「Aさんの送別会行きますか?」と聞かれていたのでそれが開催されることは知っていた。そう、私はそのメンバーたちの「忖度」により、招待されなかったのだ。

実際、私と仲のよかった同僚は、そのメンバーの1人に「Yunaさんを呼んでください」と言ってくれたらしいが、その返事は「彼女を呼ぶとAさんが嫌がるかもしれない」というような旨だったらしい。

呆れた。そして、とても悲しかった。

私とAさんが議論していた内容は、当人同士あるいはそのミーティングの出席者しか知らないはずだ。議論以外では普通に会話することもあったし、世間話もした。私が退職すると決めたとき、年末で忙しいなかAさんは急遽1時間半確保して、ゆっくり話を聞いてくれた。このことを彼らはきっと知らなかったのだろう。

こうなると当然今後の関係も気まずくなる。事実私が招待されていないことは、Aさんの送別会が実際に開催される前からすでに私の知るところとなっていた。私とAさんの、そして私と彼らの関係にこのことがどう影響するかということに、もし少しでも考えが及んでいれば「今回はこういう事情で招待しないことにしましたのでご理解ください」という通知があってもよさそうなものだが、それもなかった。直接何も知らされぬまま、しかしあっという間にハブられたことを知った私が彼らに対してどういう気持ちになるかなんて、どうでもよかったのかもしれない。それはつまり、私が彼らにとってどうでもいい人間であったと宣言されているに等しい。それはとても悲しいことだった。

せっかく仕事で知り合えたご縁、できれば長く大切にしたいと思う。いくら仕事上対立関係になったとしても、それが個人的関係にまで影響するのはとても残念なことだ。そんなことがデフォルトになったら、逆に個人的関係を壊すまいと意見を言いづらくなってしまうだろう。それってビジネスにとってとても損なことではないだろうか。ましてや、当人同士の話ならともかく、周りが「忖度」してその対立を個人的関係に持ち込むことにベネフィットはないはずだ。仕事上の対立をいちいち個人的関係に持ち込んでいては、自らの人間関係を貧しくすることになってしまい、それも結局損だ。

そこで思うのだ。調和を極度に重視するあまりの「忖度」やその場限りの対応が、仕事をやりづらくしたり無駄な時間を生んだりすることって結構多いんじゃないか。日本の労働生産性の低さが注目されて久しいが、その要因の1つに日本特有の調和重視文化も影響しているような気がしてならない。もちろん調和は大事だが、それはあくまで何かを達成するための手段であって、それが目的になってはならない。ビジネスの目的を達成する際に常に最重要視すべきは調和ではないはずだ。

そもそも、様々なバックグラウンドや立場の人が集まると、最初から意見が合うことの方が難しいという前提でいた方が自然だろう。職場においてエスニシティ、ジェンダー、家族構成、婚姻形態等に多様性のなかった時代なら合意も簡単だろうが、これだけ社会の構成要員や価値観が多様化している今、対立が起こることは避けて通れないことだ。調和を重んじるあまり対立を避けることが目的化するなどもってのほかだ。

対立というのは決してネガティブなことではない。それは物事に対してお互いが真剣に向き合っている証であり、責任感の表れだ。どうでもいい物事や人に対して対立することなどない。だから私はあの会社の事業や未来をお互い真剣に考えて対立したAさんには半ば戦友のような気持ちを抱いている。そして、仕事で対立したからといって、Aさんに対して個人的にネガティブな気持ちはまったくない。

Aさんとはその後連絡が取れていない。私が送った送別メッセージも果たして届いているのかわからない。でも私はまたお会いしたいと思う。今日LinkedInで連絡してみるつもりだ。

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