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定説を無視して幸せを掘り下げたら、自己肯定に行き着いた

私は長らく「自分の幸せ」に関して思考停止していた。幸せというラベルが貼られた定型容器があたかも決まっていて、そこに自分が入ることで「自分は幸せなんだ」と安心していたとでも言えばよいだろうか。メディアが流す「幸せ像」を真に受けていたというのもある。

幸い数年前にラべルからは卒業し、今の私は「離婚歴有の独身、アラフォー、定職なし、居候」である。一般的にこのラベルでは「幸せな人」にはカテゴライズされないだろうが、そんなことは心の底からどうでもよくなった。

何が自分を幸せにするのか

しかし自分はどうしたら幸せを感じられるのかについてはその後も積極的に考えてこなかった。ようやく考え始めたのは恥ずかしながら今年に入ってからである。きっかけは、少し前に読んだ『私は私のままで生きることにした』という本だった。

人々は幸せになりたいと言いながら、
何が自分を幸せにするのか、知ろうとしない。
幸せとは、ある朝、食卓の上にぽとりと落ちてくるものではない。
(中略)重要なのは......。
自分は何に幸せを感じるのか、
自分はどうすれば立ち直れるのか、
自分はどんなときに生きていると実感するのか、
という、自分の幸せを扱うノウハウ。

私はこの文を読むまで、自分にとっての幸せとは何か掘り下げることなく、ただ「幸せとされる行動」や「幸せそうな人」を見て真似しようとしたり焦ってみたりと、誰の得にもならないことを延々とやってきた。延々と。

そんななか、経験から幸せの要素だと思っていたことが1つだけある。それは、社会的に価値を出すことだった。

「成功=幸せ」ではない

私が以前人生のどん底時代にいたとき、一番辛かったのが週3の簡単なパート労働しかせず「世の中に何も価値を出せていない」ということだった。「世の中から必要とされたい、認められたい」という承認欲求である。この渇望が満たされていないことが辛かった反動で、私はその後4年間、世の中に価値を出すべく仕事中心の生活を過ごしてきた。

しかしこの考え方自体もよく考えたらおかしい。なぜなら自分の幸せや価値を生産性、つまり有用性で測っていたからである。

生産性についていえば、結婚しない人、結婚しても子どもがいない人は生産性がないので価値がないと考える人がいる。また、子どもを産み育てることは生産性の観点で価値があるといわれる一方で、子育てが仕事と比べて生産的ではないと考える人もいる。仕事ができるようになっても、結婚、出産のために休職、退職されたら、経済的な損失であると見る人は、出産、子育ては仕事よりも価値が低いと見るのである。話を重度の障害者を殺傷した犯人に戻すと、彼の考えはあまりに極端なのでおかしいと思う人がほとんどだろう。しかし、殺すべきだとまでは考えなくても、人間の価値を生産性に見ている人が多いのは問題である。(COURRIER JAPON より引用)

これは哲学者である岸見一郎氏の文である。岸見氏は相模原で大人数が殺傷された事件について、「特異な人が犯した事件というよりは、多くの人が暗黙のうちに認めている価値観が反映された事件と見るのが正しい」と説く。

これを読んだ私はまさに自分がそちら側の人間だと気付いたのである。某議員のように人の存在意義を生産性で測る発言をされるともちろん「それはないだろう」と思うが、その一方で「世の中に価値を出せていないのが辛い」というのもまた、生産性に囚われて自らの存在意義を疑問視する考え方だ。

岸見氏は「成功と幸福を混同しているのが不幸の始まり」とも述べている。「世の中に価値を出して認められたい」という有用性に基づく承認への渇望もまた、幸せではなく成功を求めるものだ。でも成功したからと言って、あるいは周りから見て恵まれている状況にあるからと言って、幸せであるかどうかは別問題だ。

自分を大事にできる環境を整えること

成功とは相対評価であることが多い。そして、私自身の経験や観察の結果、自己肯定感の低い人は相対評価、他者からの承認に振り回されがちな傾向にある。もちろん人間は社会的動物なので人や社会との関わりで幸せを感じることはあろうが、それだけでは「働いていない=無価値=絶望」になる。では無職になったとしても幸せでいられる内的基準とは何だろう。

結局、幸せとは、自分で自分を認めることに尽きるのではないだろうか。ほかのモノや人に承認を求めるのではなく、自分のことを最高に好きでいること。平たく言えば、自分を大事し、自分に満足している状態だ。

そして自分を大事にしつづけるためには、それを軸にして人間関係も含めた環境を自ら整えていくことが大切だと考える。逆に言えば、自分を大事にできない環境を勇気を持って変えていく、あるいはそこからできる限り離れるということだ。かつて私は自分のことを守ってやれず、日常的にうっすら傷つくことが当たり前の毎日のなかで、「容器に入っている」というだけで自分は恵まれている、つまり幸せなんだと言い聞かせようとしていた節があったが、最近はようやく自分を優先した関係や環境を自ら作っていくようになった。

これは何も非難されるような「自己中心的」考え方ではない。社会心理学者のエーリッヒ・フロムは『愛するということ』のなかで「他者を愛するためにはまず自分を愛さなくてはいけない」と説いているが、自分を大事にせずして良い人間関係は築けないことを私は身を以て実感している。

たとえば嫌なことを言われていつも我慢している関係において、穏やかに自己主張してみるというのも、「自分を大事にできる環境」づくりの1つだ。「空気」や「評判」ではなく、「自分の気持ち」を軸に行動することもそうだ。わがままに振る舞うのとは違う。相手を配慮しつつも自分の気持ちをわかってもらう努力をする、いわば「アサーティブ」なコミュニケーションを惜しまないことだ。

そうして整える環境はもちろん人によって違うだろう。結局、用意された定型容器にぴったり収まることで本当に幸せになる人などほとんどいない。当たり前だが、人はそれぞれ多様なのだ。

(Photo by Harry Quan on Unsplash)

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