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母性原理・個人・民主主義 - はじめに

これは、1990年、私が大学生のときに書いた卒業論文です。最近Twitter読んでると、価値観というか倫理観の亀裂からおかしなことになっていることが多いと感じてます。これって、自分の若い頃にもあった話で、自分なりになんでこうなるのかって調べたのがこの卒業論文です。このころから変わったことも多いですが、変わってないことも多いと思って読み返してたら、これってちゃんといつでも読み返せるようにする価値あるかもって思ったので、原稿用紙に書かれた手書きのものを文字起こししていくことにしました。(原稿用紙に手書きですからね!時代ってもんです。)

この論文の目次

1章 母性原理と父性原理 
  1節 母性原理と父性原理 
  2節 父性原理 - 個の倫理の社会
  3節 母性原理 - 場の倫理の社会

2章 日本の状況
  1節 混乱の原因
  2節 永遠の少年
  3節 集団エゴイズム

3章 日本における民主主義の展開
  1節 自我の確率の必要性
  2節 変わりつつあるその体質
  3節 社会民主主義
  4節 豊かな社会とは

以下は、論文のはじめにの部分になります。それぞれの文字起こしが済んだらリンクしていきます。

はじめに

私たちは、普段の生活の中で、常にそのときの正誤の判断に基づいて行動していると思う。私自身もそうである。私の場合、常に個人の自由を尊重することが大事だと考えている。それは私自身が感銘を受けるときというのが、個人の自由を大事にしている人の話を聞いたり、そのような人の行動をみたりするとき、だからだろう。私の大好きな歌手にジョンレノンという人がいるが、彼も個人の自由を大事にしていたんだと思う。

しかし、実際の日常生活においては、疑問を感じながらも、周囲の風潮に合わせて人の言うことをよく聞く。つまり、従順な態度で行動するのがあたかも正しいことかのごとく行動してしまっている。実際の自分の行動は、個人の自由を目指すどころか、波風立てずにその場が過ぎていくことが最も大事な原理になっている。なぜ心の中で考えていることと、実際の行動とに、こんなにも差が出てしまうのか。自分の中でこの二つが混乱していき、どこに出口があるのかわからない状態になっていった。

昨年(*1)、本多勝一の「子供達の復讐」と言う本を読んだ。この本は、中学から高校にかけての年ごろの少年の家庭内暴力から起こった二つの事件についてのルポタージュである。その中に「母性原理と父性原理の対立の犠牲者たち」と言う題の対談があり、その中の「日本は、もともと母性集団だけれども、学校の勉強で科学とか、論理とかは一応父性原理で習う。教育はある程度父性原理で教えるけれども、社会の実状は全然違う。したがって、上からの教育によって作られた世界と、実際僕らが心理的に動いている世界とにすごい亀裂が生じていると思うのです」という一説を読んだときに、これが自分を混乱させている原因だと感じた。

*1 ここでいう、「昨年」は、1989年のことだと思います。

この上からの教育によって作られた世界と言うのは、日本にはもともと存在していなかった個の自由につながる論理的世界になる。ところが、実際に私たちが心理的に動いている世界というのは、個人に場の尊重を要求することになる。この対談の相手である河合隼雄は、個の自由というのは父性原理に基づく倫理観であり、場の尊重とは、母性原理に基づく倫理観であると言っている。そのとき、私の中の問題は、実は日本人の多くの人たちを混乱させている問題でもあったということを知った。

よく考えてみれば、日本は平和憲法をもつ民主主義国家だと言われるが、実生活においては、談合で問題を解決したりすることが多い。(日本の政治家による政治もそうである)これは、日本という国のレベルで見たときの、上からの教育と実生活の亀裂だと思う。

「母性原理と父性原理」という考え方は、私の混乱した生活倫理の謎を解いてくれる重要な鍵になると思い、このことを追求しようと考えた。

まず最初に、母性原理と父性原理とは何かを、河合隼雄の「母性社会日本の病理」という本から考えてみたい。そして、その中で母性=場の倫理、父性=個の倫理という言い換えが可能になるので。この二つの倫理観が中心に置かれている社会についてそれぞれ検討をしてみたい。

個の倫理が強い社会としては、個人の自由、そしてそれを守るシステムとしての民主主義について、バーリンの「自由論」を中心に定義づけていきたい。

そして場の倫理としては、「タテ社会」という日本的集団の特徴を説明するものとして有名な概念について、中根千枝の説を元にして定義づけていきたい。そして、日本的な場の倫理というものが何であるか、なぜ場の倫理が必要がったのかを考えていきたい。

そしてそれらを踏まえた上で、実際の日本の状態を、会社という集団と個人の関係で見ていきたい。つまり、日本でも母性原理と父性原理の混乱の中で、場の倫理より個の自由がどれだけ曖昧にされていたかということを認識しようということである。

そして、日本の民主主義はどうなっていくのかを考えてみたい。日本は個人が法によって守られるのではなく、自分の所属する集団によって守られている面が多いのだが、それでは民主主義になったとは言えない。しかし、今日本の多くの会社が変わりつつある。会社(自分の所属する集団)という「場」の中に入って入れば大丈夫という体質が変わりつつあるということだ。この新しい変化に日本の民主主義はどう対応すべきなのかを考えてみたい。

また、今、世界中で中奥されている社会民主主義についても触れて置きたい。この考え方は、全ての人々に少なくともミニマムの生活を国家が保証し、様々な形で経済や政治の過程に人々が発言する権利を持てるようにするものである。日本とどう違うのかを考えてみたい。

私は、最初にも書いたように、個人の自由が大事だと考えている。日本で個人の自由を大事にする人が増えたときに、必要になるのは制度だと思う。個人の自由を守るときに、その千差万別のものを一つに束ねるには、それなりの枠を作るしかない。そしてその制度をしっかりとしたものににするためには、混乱した意識から抜けだてくことは不可欠な要因であるだろう。自由や平等などの言葉を解釈する場合でも混乱した倫理では、自分勝手な解釈にならざろうえない。制度が変われば全てが大丈夫だというわけではない。ただ、混乱があるという事実、またそれが制度面にも現れてるという事実は、疑うことができないであろう。外国のものと同じになる必要はないが、混乱したところから抜け出さない限り、私も、私以外の人も、同じことの繰り返しで終わってしまうのではないだろうか。


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