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永遠の少年 第2章第2節

この論文の第2章、第2節です。

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日本の社会とは、永遠の少年的性質を持っていると河合隼雄は言っている(注1)。 簡単に言えば、それは絶対的平等観という母性原理を基にして、個の権利を主張していることである。個の自由という価値が新しく認められても、その本質がわからないので、中途半端な主張(「やだ」とか「つらい」など)になってしまうのである。

注1:これはユング心理学の元型の1つである。

父性原理の立場から言えば、個の権利を主張する自我を持つこと(それに対する責任を持つ)が、大人であるということが認められる条件である。それだけの自我を確立しないと、どんなに素晴らしいことをしても結局は母性原理の「場」に戻ってしまう。それは甘えさせてほしいと自己主張しているのと同じである。会社の上司の文句ばかり言ってるがその会社をやめる気はさらさらない場合などがそれに当たる。

だからと言って、日本の会社に、しっかりと個の倫理を持っている人(場の倫理を持っていない人)が入ったとしたら、その人は潰されてしまうであろう。実際に日本で会社をやめるというのは、とても損な面が多い。それについて、三戸公はこう論じている。

上役と意見が合わぬ、あるいは会社の経営方針と自分の考え方、生き方が合わぬ。そのときは、どうするか。もう一度考えてみよう。まず、辞めて別の会社に行こうと考える。さっぱりする。自分の考えを直すことはできる。だが、それではあまりにも損である。なかなか適当な職はない。自分の考えや意見が聞いてもらえ、それが通るような職場は容易にはない。新しい会社では今まで以上に自分の意見を述べることは困難である。日本の会社はみな同じような体質である。辞めて別の会社に行く。今の会社より小さく、有名でなく、給料も下がり、何から何まで不利になるのが一般的である。また定年を待たずに、会社をやめるのは退職金の算定に極めて不利であり、年金が支給されず、されても不利である。(三戸公 「日本人と会社:1981年」 )

なんでこんなことになるのか。それは、第1章の「母性原理」のところで論じた、「ウチの者」「ヨソ者」の意識でよくわかるだろう。「ヨソ者」になると、「ウチの者」に戻るには、とてつもない苦労(一番下からやり直し)が必要になる。「タテ社会」の一元的な閉鎖社会では、相対的な序列の中にしか価値は存在しないので、場に合わせるための競争が始まる。それについていけない落ちこぼれは「ヨソ者」になる。そして、孤立する。その不安と恐怖が日本人を「勤勉」で「働き者」にしていくのである。

先ほど書いた「永遠の少年」とはモラトリアム人間ということができる。普通、社会の中でこれが使われている時、それは誤用されていることが多い。今の若者はモラトリアム人間であると言われることがあるが、責任から逃れそうとするときの責任自体が場の平衡の維持のための責任担っているところに問題がある。自己の主張に対する責任を持たず、黙ってニコニコして場の平衡の維持だけをしていればよかったそれまでの大人もモラトリアム人間であると言える。自己の主張に対する責任からの猶予という意味で考えれば、日本はモラトリアム人間の集合体であると言える。

そこには、この主張の入る隙間はない。論理的に正しい正しくない以前に同調しなければいけないのである。総理府の「勤労と生活に対する世論調査(1987.11.22)」によれば、全国の20歳以上のサラリーマンの52%が有給休暇を取ることに対して後ろめたさを感じ、勤務時間外の過ごし方でも、それを望んでいるのもたったの19%にしか過ぎないにも関わらず、37%が職場や仕事関係の人と付き合うという。

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