見出し画像

集団エゴイズム 第2章第3節

タイトルとかちょっと過激なので補足したいのですが、この論文は私がまだ社会人経験がない大学4年生の頃に書いたものです。20代前半の若造ならではの世の中を知らない感も出ていて、論文というより三面記事的になってきますが、そういうもんだって前提で読んでもらえれば幸いです。

この論文の第2章、第3節です。
-----------------------

個人の自由を尊重したくとも、個人の自我の確立がまだ十分でない日本人は、また会社などの場に吸い込まれていく。氾濫した甘えはまた別の場に収まっていく。「豊かな国を作る」という名目で。

甘えの氾濫

その名目の下で、個人は再び潰され始めた。「高度成長」して、「豊かな国」を作る必然(これが一元的価値になる)は、戦前の天皇に匹敵するような権力を持ったのである。それは(個人ではなく会社による)金儲けが最大の価値になるので、会社の金儲けのために個人の生活は抑圧されても構わない(最大の価値のためであれば)という理論に到達する。それは、エゴ以外のなにものでもない。個人の自由の尊重を考えていれば、それは確実に憲法にも反しているということに気づくはずである。「資本主義は搾取の体系である」とマルクスは言ったが、日本の労働者は資本家のそれ同調してしまっている。熊沢誠はこのことについて次のように論じている。

多くの場合の日本人の労働者の主体性の自覚とは、経営者的立場にたって仕事に取り組むことであり、仲間意識の強化とは、経営の意思を個人に強要する機構の整備であるようにさえ見える(熊沢誠 「日本の労働者像:1981年」)

まさにそれは主体性の履き違えである。

労働者を守るのが組合ならば、このようなことは起きないはずなのだが、日本の労働組合は非常にものわかりがよく、資本家に有利な存在なのである。日本の労働組合は経済の高度成長が低成長に暗転したときに、企業ごとの賃上げが企業ごとの支払い能力に整合的になり、春闘相場も整合的になってしまうのである。そしてその頃の組合のリーダー的立場の人の発言はを見てみるとこうなる。全国マツダ労働連合会長はこう述べている。「石油ショック後の経営危機を契機にこれ(労働組合と経営は一戦を画すという考え)は間違いであることがわかった。経営ミスのつけが労働者に回ってくると考えれば、経営者に任しっぱなしというわけにないかなくなる」と。それが経営参加の要求の背景である。熊沢誠はさらにこう付け加える。

総じて強く印象付けられることは、労働組合が生産点における平組合員の抵抗を基礎にして、労働管理に及び労働者間競争の制限のために何かをなしうるかもしれないという意欲と構想の設定した欠如である。日本の労働運動は、対立性の淡い参加の域を超えて、経営者主導の協調的参加に下半身を、すなわち参加の生産点における部分をのめりこましているのである。(熊沢誠 「日本の労働者像:1981年」)

経営に参加することにより、組合員の要求に答えることはどこかへ消え去ってしまっている。これではもう一個人でしかない労働者は、会社にすがるしか道がなくなるのである。そのために他の仲間が犠牲になってもそれは仕方ないことになる。

責任を猶予したツケに対するエゴイズム

労働者に甘えきってその責任を猶予してきたツケは、いたるところに発生した。その代表例が企業の垂れ流しによる公害の発生、そしてそのために発生した病気(水俣病、イタイイタイ病など)である。とても衝撃的な例があるので、まずはそれについて書いておきたい。

まず、公害を生み出した企業の東邦亜鉛は、1968年6月に記者会見を行い、「重金属は樫根(かしね)のみならず、対馬全島に埋蔵され、樫根の井戸水より高い分析値を示しているが、患者は出ていない」とカドミウムと患者の関係を否定し、これは「農婦症に帰すべきである」と断定した。企業側が真の原因を隠そうとするのはわかるが、労働組合も「対馬を知らない人の偏見的な考え方が、平和な樫根部落の人々や我々組合員を如何に苦しめたかを考えると怒りを覚えてならない」とその真が関係を否定している。(間庭充幸「日本的集団の社会学(1990年)」)

もうこれは、労働組合を包摂した企業のエゴイズムにほかならない。それの正当化のために、労働者の市民意識も腐敗しきってしまっている。言い換えれば「ウチの者」の価値のためには、他のことはどうなっても構わないのである。

しかしもっとすごいのがその後である。

部落全戸主連合捺印の「声明書」は次のとおりである。「富山県神通川流域のイタイイタイ病(これは三井金属による-引用者)と同じような病気が佐須の樫根地区にあるのではないかと、新聞やテレビ、そして映画等の関係者が取材のためにたくさんブラウへ乗り込んできて、あることないことを大げさに発表し、質かな部落の空気を乱し、我々を精神的に苦しめています。この部落にはイタイイタイ病の症状や患者は過去にも現在にも見当たりません。それなのにイタイイタイ病というありがたくないレッテルを貼られては、今後、娘や息子の結婚や就職にも差し障りが出てきて迷惑至極であります。どうかこれ以上ありもしないことで私たちを苦しめないでください。どうか静かにしておいてください。」(間庭充幸「日本的集団の社会学(1990年)」)

豊田市がトヨタ自動車の城下町であるように、対馬もまた東邦亜鉛の城下町である。悪者はもちろん、その親族もこの企業に直接依存してきている。その恩返しという意味で、この部落の人々は病気を隠そうとする。企業という場の中から取り残されなくないがために自分たちが被害者であるにもかからわず、場に同調していくのである。

これと似た出来事は熊本県で発生した水俣病の現場でも起こっている。

労働に付け加えられた自主管理活動

企業によって労働に付け加えられた「自主管理」活動も企業という場に鹿守られていない労働者にとっては、企業への同調競争にすぎない。経営者的立場に立って「いかにして能率をあげるか」考え、非人間的な能率重視の労働形態を自ら作り出してしまう。

トヨタ自動車の合理的な生産方式は、その良い例になる。労働者に常に手持ち時間(余裕)を与えず、常に仕事量が多くとも「つらい」という心理的抵抗を持たせなくする。そして「ジャストインタイム=カンバン方式」というものの導入により「コンベアスピードに自己の労働ペースを合わせるという奇妙に倒錯した意味の熟練、それを可能にする器用さ、機敏さ」が要求される。これは知的エネルギーの全く必要のない労働疎外である。

現代の日本人の場への同調競争は、「戦前型ナショナリズムに基づく強制の否定の代わりに、人間を品質管理する必要性と基本的人権を鵜呑みにして勘違いの平等主義から(熊沢誠 日本の労働者像より引用)」生まれたものである。

そして金儲けのためには、基本的人権(個人の自由など)が抑圧されていることに疑問を感じなくなるシステムが確立されると企業のエゴイズムは、たるところで氾濫しだす。そのエゴイズムの氾濫により、日本は奇跡的な高成長に成功し、世界中が挫けたオイルショックもうまく乗り切るのである。

豊かになった日本の価値観の暴走

その後、日本は一人当たりのGNPが世界第二位(注)になり、豊かになったのだが(経済的に見てであるが)、この価値観(経済成長のための努力)は止まるところを知らずに暴れ出した。

(注)日本は1968年に世界第二位になり、2010年に中国に抜かれるまでその地位を守り続けた。今も三位ではあるが、実は、日本は人口が1億を超える国であることが大きく、1人当たりのGDP(IMF2016年統計;購買力調整済み)で見ると、日本は世界26位にまで落ちている。

そして土地や自然など人間の生活の基盤になるものを犠牲にしてまで成長しようとしている。そして、みんながそれに同調していく。そんな「場」の奴隷になることによって成功を納めた人たちに対して「個の倫理」における自由を主張しても、お互いの間には自由の意味を共有する隙間はほどんどないのかもしれない。

サポートありがとうございます。これをカテにこれからも頑張ります。